教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第20回 愛宕薬師フォーラム平成27年5月18日 別院真福寺

「叱られること、叱ること」-人が育つ根底にあるものとは-

講師:高幡山金剛寺第三十三世貫主 大僧正 川澄祐勝 師 オトワレストラン オーナーシェフ  音羽和紀 先生

《川澄祐勝師》

僧侶になるまで

 私は昭和六年に埼玉県秩父の農家の次男として生まれ、今年八十四歳になります。終戦時には十四歳でした。その後、私は悪性の気管支炎を患い、高校を長期休学して、自然退学になってしまいましたので第一回の大学入学資格検定試験を受けて東京の大学に入りました。
 下宿先は、墨田区吾妻橋にある叔母が嫁いでいた高幡不動尊系の小さな寺でした。しばらくして叔母から「寺の跡をとって欲しい」と切り出されました。私は、当時経済学を専攻しており、それを活かした職業に就きたいと考えていましたので、僧侶になることは想像もしていませんでした。しかし「僧侶の資格だけとってくればよい」ということで大学卒業後に高幡不動尊に入ることになったのです。
 この時にお世話いただいた近所の僧侶からは、「三ヶ月の間に僧侶の第一歩となる得度式を行ってもらい、それから何年かの間に研修を受けて僧侶の資格をとれるようにしたいとの希望を、高幡山の秋山大僧正にお伝えしてあるから安心して行ってきなさい」といわれて高幡不動尊へ入寺しました。
 入寺して間もないころ、秋山大僧正が導師をお勤めする大法要に随行しました。法要が始まると「俺の後ろで団扇を扇いでいるように」と指示されました。手が疲れて団扇をとめると「ギョロッ」と見られ、「坊さんは甘いもんじゃないぞ」とみっちり教えこまれました。一年後にやっと得度式をやっていただきましたが、その後所定の加行や宗派の研修をすませて、正式な僧の資格をいただいたのは四年後でした。その時私は腰掛けのつもりで入寺したのだが四年間も仏飯をいただいて僧侶の資格をとらせて貰ったのだから真言宗の僧侶として生きて行こうと覚悟を決めました。

物事は前向きに……一期一会

 師僧の秋山大僧正には毎日のように叱られていましたが、師僧は叱った後には必ず「どうして叱られたか考えろ!」と仰いました。叱られた後に、振り返ってみますと、自分では一番いいと思って行ったことも、他にも更に良い方法があったと気づかされることが多くありました。また、「人間の一生は、限りがある。だから物事はすべて前向きにあたらなくてはならない。前向きか後向きかで、人生自体が変わってしまう」と諭され、そのおかげで私も前向きに物事を捉えることができるようになりました。
 話は変わりますが、小僧のころの出来事をお話しさせていただきます。
 ある時、ものすごい剣幕のお爺さんが来山されました。用件をお聞きすると「お寺の境内に、狛犬がいるのは間違っている。狛犬は神社のものだから撤去しろ」と怒鳴られました。ひととおりお話を伺ってから、私が「狛犬の高麗は、古代朝鮮のことですから狛犬は仏教文化とともに日本へ伝来したのではないでしょうか」と反論しますと、その方は意気消沈してお帰りになりました。
 お爺さんの騒々しさが襖越しに秋山大僧正の耳に入っていたようで、ことの顛末を報告しましたところ、その途端に「このバカヤロウ!」とカミナリが落ちました。「出会いは一生に一回しかねぇんだ!人をやり込めてどうする。人と別れる時は、必ず笑って別れるんだ。てめぇだって、一期一会の教えを知ってるだろ!」とそれはひどく叱られました。このエピソードの一期一会の教えに限らず、叱られながらさまざまなことを教えていただきました。

叱り甲斐のある人間

 それ以降も毎日のように秋山大僧正から叱られていましたが、叱られた一時間後に仕事の報告等で伺うと、ニコニコしながらお聞きくださるのです。そこで「憎くて叱ったのではないのだな」と私も納得していました。
 とはいえ、三十分以上も怒鳴りまくられますと、さすがに堪えます。そんな時に、秋山大僧正の奥さまから次のような言葉をかけられました。「うちの御前さまは、叱り甲斐のない人は、絶対に叱らない人だから自信をもってやりなさい」と元気づけてくださいました。
 このことは一般社会でも当てはまることです。今社会全般が「褒めて育てる」一色になっており、叱ることが難しい時代ですが、それでも叱って貰える人間になることが大切でしょう。

本尊不動明王像の修復と身代り不動三尊像の造立

 高幡不動尊の不動明王像は、国指定の重要文化財です。その不動明王像の高さは、丈六(坐像三メートル)で平安時代の作として有名です。この大きさの平安時代の仏像は関東に四体しかありません。不動明王像に限れば高幡不動尊の尊像のみです。この不動明王像は武蔵野が草深い地の代名詞のように語られていた平安時代後期に高幡の地で造立され、大勢の参詣者に護られた像で関東地方の不動信仰の先駆けになったことは間違いないと思われます。
 その不動明王像と約二万点の収蔵文化財の総合調査が昭和六十年から六十一年にかけて、文化庁と東京都の調査班により、とり行われました。その調査でさまざまなことが解明されました。
 その中でも丈六の不動明王像は、正面から見ると威風堂々としていますが、裏から見ると大変に傷んでおり、いつ崩れても不思議でない状態です、早急に修理して下さいと指摘されました。このことを秋山大僧正に申し上げたところ「弱ったなぁ」と仰るのみで「修復しろ」とは仰いません。なぜなら、高幡不動尊では、年間二千百座以上の護摩修行をとり行いますのでご本尊の不動明王のお姿がないということは考えられないのです。
 その後平成元年に、私は高幡不動尊の住職になりましたので、この修復事業は私の仕事だと受け止めました。とはいえ修復は、京都国立博物館国宝修理所でしかできず、修復期間は四年あまりとのこと。今までのご本尊さまに準じた大きさの身代り本尊像を造立することになりましたが、費用は三億円。「大変だなぁ」というのが、正直な気持ちでした。
皆さまご承知の通り、浅草寺の雷門と風神・雷神像は、松下幸之助氏が一人で納めたものです。そこで私は、高幡の檀信徒の中に松下さんのような方がおられないかと探しましたところ、お一人の方から声がかかり両童子さまの奉納が決まりました。
 しかし、その安堵も束の間、翌朝には、その方の息子さんから「うちもバブルが弾けて以降そんな余裕はないので出せない」と断られてしまいます。断られた瞬間に私は目覚めました。本尊不動明王が平安時代から現在まで、大勢の参詣者のお力で護られてきたことに改めて気がつきました。その日の護摩修行から参詣者お一人お一人に一口一万円のご寄進のお願いを申し上げ、おかげさまで四年間に一万人近い方からご寄進をいただき、平成九年四月十二日に新たに造立した身代りの丈六不動三尊をお迎えすることができたのです。

親の本当の愛情

 ある日、上品なご夫人が息子のことについて相談したいとお見えになりました。内容を聞くと「うちの息子は温厚な性格で、小中高校とトップクラスの成績で、一流大学を卒業し、一部上場企業に就職しましたが、新入社員研修が終って間もなく配属部署の上司から叱られ、その日以来、出勤しなくなった」とのこと。さらに話を聞くと、息子さんは両親からも叱られず学校の教員にも、一度も叱られたことがなかったそうです。
 私は「断定はできませんが、あなた方がこの子は頭の良い子だからと一度も叱らなかったことが、息子さんが打たれ強い人間になれなかった原因の一つになったと思います。上司の方は会社にとって必要な人材に育てるために注意したのではないでしょうか。子育ても社員教育も褒める時には褒め叱る時にはきちんと叱る事が大切です。不動明王の忿怒相は、怒りではなく慈悲からのものです。褒めるばかりが、愛情ではありませんよ」と答えました。
 親の本当の愛情(慈悲)とは、山あり谷ありの人生を子どもがしっかりと乗り切れるよう考えて接することではないでしょうか。そのためには、真剣に子どもに向き合い、「叱るべきときは叱る」ことが大切なことだと思います。また、このことは親御さんに限らず、会社の上司など指導する立場の人にとっても、特に重要なことでしょう。

《音羽和紀先生》

将来の夢

 私は、現在オーナーシェフとして料理人をしていますが、親戚の中に一人も料理関係の仕事に就いている者はいません。栃木県宇都宮市で生まれ、父は県庁職員で農政を担当し、母は専業主婦、そして私は三人兄弟の末っ子として蝶の採集が大好きな少年でした。
 幼稚園のころから昆虫が大好きで、採集は蝶に始まり、カブトムシなどの甲虫、果ては蛾にまで及び、標本のみならず、卵や幼虫を採集し、飼育するなど、ファーブルのような研究家になるのが私の夢の一つでした。もう一つの夢が料理人になることでした。そのどちらの夢にも「外国へ行ってチャレンジしたい」という漠然とした想いがあり、これは小学六年生のころには芽生えていました。

料理人になる

 それから高校生のころには、「料理人を目指そう」という目標が確固なものとなり、また、「料理ばかりではなく、できたら経営者にもなろう」と志をたて、夢の実現のために具体的な計画を練りました。お金を貯め、「外国で生きていくためには何が必要か」などを考え、行動をし始めました。
 日本人が外国で滞在する時に、強みとなるものは……。その一つの答えとして、現地で自立するための足しになるだろうと、高校一年生から「空手」と「生け花(華道)」の稽古をして、教えられるくらいになりました。
 料理人を目指し、そして外国で修業するため準備を着々と進めてはいたものの、当時(一九七〇年ころ)は、外国に行く人も現在のように多くありませんでした。ですから外国に渡るためのルートを探すことも、かなり難儀なことでした。
外国へのルートを探し、東奔西走するも見つからず……。諦めかけたその時、たまたま父の友人の伝つ手てで、ドイツのキール市に留学している人が見つかり、現地での修業先(料理店)が決まりました。

ヨーロッパ各地での修業

 一九七〇年十一月、キール市へ到着。外国で初めてレストランでの修業が始まりました。当時は一ドルが三百六十円の時代で、持参したお金はみるみる減り、研修の給料だけでは休日の食事もままならなくなりました。そんな折、キール大学から空手のトレーナーの依頼が舞い込み、料理は研修、空手はマイスター扱いなので、研修の給料よりも高額な指導料をいただき、助かりました。
 その後、同じドイツのケルンにある有名ホテルへ入り修業します。しかし当時も今も、食材の恵まれた風土や料理の魅せ方など、フランスは何から何までは特別でした。だから、「いずれフランスへ行かなくては」と日に日に強く想い始めたのです。そしてケルンからスイス・ジュネーブのフランス料理レストランを経て、フランスは、ミオネーにあるフランス料理のレストランへ活動の場を移します。ここの料理長が、フランス料理界のダビンチといわれるアラン・シャペル氏です。
 シャペル氏は、国の最高技術職人(MOF)です。この認定試験は、四年に一回開催され、フランス全土で合格者は二名程度で、合格者なしの時もある超難関試験ですが、シャペル氏は最年少で合格しています。そのシャペル氏のレストラン(ミシュランガイド三つ星)で修業の機会を得て、料理ばかりではなく、さまざまなことを勉強させていただき、吸収することができました。

大切なこと

 シャペル氏のレストランがあるミオネーという村の人口は当時、二百八十人ほどで、どこにでもあるような村でした。そのような場所にもかかわらず、時間とお金をかけて、シャペル氏の料理を求めて世界有数のグルメが集まってきていました。それを裏切らないためにも、シャペル氏は全身全霊、神経を料理に集中させます。厨房にいる私たちも、相当な集中力が要求されます。
 しかし、シャペル氏からは、誰一人として一度も怒られることはありませんでした。ただ、「プロフェッショナルとはなにか」ということを言葉ではなく、完璧な作品、そして仕事に対する向き合い方から教えてもらえた気がします。ここでの修業体験が、私の財産となりました。
 もう一つ修業時代から今も大切にしていることがあります。ミオネーの人々は、自分たちの村の風土・空気、そして人に愛情深く、それがベースとなり、活き活きと生きていました。言い換えるならば、郷土・街へ強烈な誇りを住人一人一人が揺らぎなく持ち、人生を歩んでいる、このことにとても感銘を受け、私は日本に戻ったら、故郷に拠点をおくことを固く心に決めたのです。
 一九八一年に帰国後、故郷である宇都宮市で、生産者の方々と触れ合いながら、レストラン事業を展開し、現在に至っています。また、母と子の料理教室などにも積極的に発信し、ともに料理を作り、ともに食べることからコミュニケーションを探る「食育」の視点からも試行錯誤しています。
 最後になりますが、私たちが、父・母・上司・先輩などと、それぞれの置かれた立場で、誇りを持ち、プロフェッショナルに徹する姿こそが、人を育てる源泉になっているような気がしてなりません。

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 この後、「叱ること・叱られること」について両講師のトークセッションとなりました。
そこでは「叱ること」には直接言葉でするものもあれば、「凛とした物事に対する姿勢」そのもので示すものがあるとコメントされ、「叱ること、叱られること」が私たちの成長にどれだけ重要かということを、それぞれの講師の体験を踏まえてお話しいただきました。

(構成/智山教化センター)