教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第1回 愛宕薬師フォーラム平成22年9月7日 別院真福寺

遣唐使と真言宗の伝来

講師:東洋大学文学部教授  森 公章 先生

平成22年9月7日(火)午後2時より別院真福寺において「第一回愛宕薬師フォーラム」が開催されました。
はじめに高麗行真宗務出張所長より、「平成十年より始まった『現代教化フォーラム』も12年が経過し、49回の開催。また4,000人にも及ぶ参加者を得ることとなり、50回を機に智山派教師の現代社会問題に対する資質向上と共に、社会に対しては教化の一環として更なる情報発信をすることを意図し『愛宕薬師フォーラム』と改称、今後も更なる内容充実を希求していく」旨の挨拶がありました。 

今回は古代日本史を専門とする東洋大学文学部教授・森公章先生を講師に「遣唐使と真言宗の伝来」をテーマにご講演いただきました。
真言宗教師ならばすでに良く理解しているテーマですが、近年遣唐使について新たな発見や学説が発表されています。そこで今回は歴史学の観点から遣唐使、またその一員であった宗祖弘法大師についてお話いただきました。
以下講演内容を要約してご報告いたします。

○遣唐使とは?
遣唐使が何度計画され実施されたか、諸説があり私は18回、実際に中国へ渡ったのは15回と考えています。人によっては20回という方もいます。空海・最澄は第16回「延暦(えんりゃく)の遣唐使」、円仁は17回「承和(じょうわ)の遣唐使」で中国渡っています。菅原道真が大使であった18回「寛平(かんぴょう)の遣唐使」は実施されませんでした。
遣唐使は舒明(じょめい)天皇2年(630)から天智(てんじ)天皇8年(669)までを前期、、「大宝の遣唐使」(702)以降を後期と分けることができます。
前期遣唐使が頻繁に計画実行されたのは、朝鮮半島の混乱、唐と結んだ新羅が百済と高句麗を滅ぼした白村江(はくそんこう)の戦いにより朝鮮半島での足場を失った日本が、安定とは程遠い唐と日本の関係を考えた時、唐へ渡ることは必要だったのです。
また遣唐使船の航路も前期は大宰府を出て対馬を経由し朝鮮半島の西側を北上して山東半島へ渡る「北路」、これは当時の百済との良好な関係により用いられました。しかし、後期の「大宝の遣唐使」以降は白村江の戦いで敵対した新羅の朝鮮半島統一で安全な航海が保障されなくなったために、九州より五島列島を経て東シナ海を一気に渡る「南路」を使用したのです。
後期遣唐使は、律令国家である奈良時代の国づくりが終わった段階で再開されました。それが「大宝の遣唐使」で、特筆すべき点はそれまで「倭」とされていた国名が以降「日本」と唐に認めさせたことであります。また白村江の戦いの戦後処理が終わったのもこの頃と推定されています。その際、二十年に一度、唐に赴くことを約束したのではないかといわれています。その結果遣唐使を通じ唐の文化が日本に安定的に供給されるようになりました。
遣唐使で派遣された者には二通りあります。「請益生(しょうやくしょう)」は一般的に日本である程度社会的に地位が認められた人が選ばれ一年ほど滞在して帰国します。一方「留学生(るがくしょう)・学問僧(がくもんそう)」は一度中国へ行くと二十年は滞在するよう定められていたので、当時の短い平均寿命を考えると帰国しても勉強したものが活かせない可能性を秘めた留学でした。

 

○延暦の遣唐使

さて、お大師さまの乗った「延暦の遣唐使」は、延暦22年(803)に出港したのですが、現在の神戸あたりで船が壊れ引きかえし、翌年に改めて出航しました。
遣唐使は正月に長安で皇帝に拝謁しなければならず、建前では中国に朝貢(ちょうこう
)し皇帝の臣下でなければ中国に受け入れてもらえないという論理があります。日本も一応それを守り、11月から12月に長安に入る為にも大たい6月、7月に出発。この時期が東シナ海を渡るのに適した時期で
もありました。
「延暦の遣唐使」は延暦23年8月に博多の辺りを出発。空海は大使・藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)の船に乗り、一ヶ月半以上の航海を経て、遣唐使の歴史では最も南である福州の赤岸鎮に十月の初めに到着しました。その後も一ヶ月近く福州に足止めされて、11月にようやく長安へ出立することを許され、五十日程かけて長安にたどり着き、翌年の正月の儀式に間に合うこととなりました。

○空海は薬学を学ぶ留学生

空海は二十年唐に滞在する留学僧でしたが唐へ行くまでの経歴に不明な点が多く謎に包まれいます。しかし、いくつかの点と線を繋ぐような話があります。一つは「太政官符 治部省」の文章で、

□(留?)学僧空海〈俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚〉
右去延暦廿二年四月七日出家入□□
※中略
延暦廿四年九月十一日

というものがあります。
これによると、正式に出家したのは延暦22年4月7日、この日は一度目の「延暦の遣唐使」が大阪を出発した前日か前々日であり、ぎりぎりで出家していることになります。

 そのような空海が、どうやって遣唐使の一員となったのでしょうか?空海は元々学問僧として選ばれているという説がある一方、最近奈良大学・東野治之(とうの・はるゆき)教授が主張されている説は、天台宗の安然(あんねん)の『真言宗時義』に

我日本国延暦年中、叡山本師入唐之時、空海阿闍梨元為薬生(後略)

とあることから、薬学を専門に勉強する留学生として遣唐使の一員に選ばれたというものです。
「延暦の遣唐使」が任命されたのは準備の都合上、延暦二十年頃であり、その後、人員が補充されたとしても正規に出家していない人を学問僧として選ぶとは考えづらい。そこで薬生(やくしょう)として名簿に入れてもらい、ぎりぎりで出家して学問僧になったのではないか。また、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)は桓武天皇の末っ子である伊予(いよ)親王の家庭教師をしており、桓武天皇の後に皇位を継ぐのは伊予親王ではないかといわれていたこともあり、その辺りの力添えを得て一員に選ばれたのではないか、という説です。このことからも空海の人としての面白さ、懐の深さが感じられます。

○唐における空海

空海の中国での到着地福州、その地で大使に代わって空海の書いた「遍照発揮性霊集 巻第五 大使福州の観察使に與ふるが為の書」により正式な外交使節であることが認められることとなります。
また、「扶桑略記抄(ふそうりゃっきしょう)二」 (延暦廿四年・八〇五)には空海の中国における伝記が記されており、長安において空海は西明寺の永忠(えいちゅう)僧都の部屋を引き継ぎ使用しました。
空海を含め当時の留学は情報がほとんどないため、渡航してから師を探しました。長安に着いた後に周到なリサーチを経て、恵果阿闍梨が中国で最も優れた密教の継承者であることを確認した後に師事することに決めたのだろうと思います。最澄にしても天台山に行き道邃(どうすい)和尚から教えを受けるわけですが、それとて渡航以前に師を決めていたわけではないのです。
恵果は空海に密教を伝えると程なく亡くなってしまうことを考えると、空海が恵果に遭うという出来事は偶然の要素が大きいわけです。
空海の唐での様子は神秘化されており、恵果は空海の来訪を予見していたとか、五筆和尚として両手両足口に筆を持ち五行の字を書いた(本当は五つの書体を自由に操った)との伝承も残しています。
しかしながら、当時の遣唐使の在り方等から現実的に見てみると、「遍照発揮性霊集 巻第五 本国の使と共に帰らむと請う啓」に遣唐使の第四船の責任者である高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)に帰国を願う文章があり、この第四船は空海を迎えるためにわざわざ派遣されたとの説もありますが、「延暦の遣唐使」の様々な苦難からして、どこかに漂流して一年位遅れて中国に着き、帰国するというタイミングであったと考える方が歴史の事実に即しているのではないかと思います。もしここで帰国していなければ「承和の遣唐使」まで三十年以上滞在しなければならなかったので、その後を考えると良い選択であったといえるでしょう。
さて名文であると言われるその文章の中には、いくつか帰国する理由を書いています。先ず長安の中を探し回り般若三蔵パーリー語やサンスクリット語の語学研修をして基礎的な語学力をつけた上で、恵果阿闍梨に遇ったということ。他の弟子よりも早く教えを身に付けたために、恵果に非常に期待され密教の伝授を受けたこと。最後には二十年も居たら髪は白くなって年を取ってしまい、帰国しても役に立たないし、得るべき密教は身に付けたのだから早く帰国したいと述べられています。

○密教が求められた背景

早期帰国した空海はもいきなり都に上ることはでず、大宰府にある高階真人遠成の元に暫くの間留まり、大同元年(806)十月廿二日に「僧空海請来目録」を著し、入唐の成果を報告することにより徐々に受け入れられるようになります。
このように、空海は文章を書くことでさまざまな問題を解決しています。これは若い時大学で文章を習ったことが役立ったといえます。正確な漢文を書くことは中国はもとより、日本においても高い評価を受け注目を浴びるので、帰国後も布教に役立ち、また書道は嵯峨天皇とともに名人といわれ、天皇の庇護を受けるためにも同じ趣味が役に立ったのでしょう。これらが貴族社会に受け入れられる素地であったといえましょう。
また平安時代には皇族・貴族は怨霊のたたりにおびえるようになります。光仁(こうにん)天皇は皇位継承の際、桓武天皇の皇太子に桓武天皇の弟である早良(さわら)親王をするよう決めていましたが、桓武天皇は自分の子を皇太子にするために早良親王を殺害します。その後、母親や妻が次々に死ぬとか、息子の平城(へいぜい)天皇までが精神的に不安定になり怨霊を恐れるようになるのです。その恐れから逃れるため心の平安をもたらしてくれる新しい教えである密教が注目され貴族社会に受け入れられていくのです。
空海より一年程早く帰国した最澄は、長安に行かず江南に留まり密教を学びました。桓武天皇は密教である遮那行(しゃなぎょう)に興味を持ちますが、最澄の学んだのは一部であったため、空海に借経するようになります。後に密教に対する考えの違いから、天台宗は独自に密教を確立することが必要になるのです。

○空海の後の密教の受容

空海の後、實恵(じちえ)が真言宗の代表者として「承和の遣唐使」に請益生を派遣します。ところが「承和の遣唐使」は出発するまでに二回も遭難しています。その中で真言宗の僧侶が乗った船は僧侶二人と何人かの船頭を残してみんな死んでしまうのです。ですから真言宗の僧侶が乗ると船が沈み死んでしまうということで、三回目の出発では真言宗の僧侶は乗船拒否にあいます。そのため真言宗の僧侶ではないのですが、密教の知識がある元興寺(がんこうじ)の圓行(えんぎょう)を何とか行かせようとお願いするのが「承和牒状 圓行入唐表並青龍寺還状等」という文章です。
それから少し後、東アジアの環境が大きく変わり、唐の商人の船が来航するようになるのが八四〇年「承和の遣唐使」以降です。それにより遣唐使でなくても唐の商人の帰りの船に乗って唐へ行けるようになりました。
安祥寺(山科にあった密教系のお寺)を開いた恵運(えうん)も實恵の勧めによって大唐商客李處人(だいとうしょうきゃくりしょうじん)の船に乗って恵果の後、青龍寺を継いだ義真(ぎしん)和尚の元に密教を勉強しに行くという話があり、真言宗は實恵を中心に様々な方法で中国の密教を取り入れようとしていました。
最後に天台はどうだったのかといいますと、「最後の遣唐使・承和の遣唐使」で円仁が中国に渡りますが、「延暦の遣唐使」以上に苦労します。中国側にほとんど留学を認めてもらえない状況で、本来ならば帰国しなくてはいけない所を一種の不法滞在を十年間しています。
余談ですが、今年、中国河南省登封市にある法王寺で円仁の名前を刻んだ石板が発見されました。円仁には十年間に渡って付けられた日記「入唐求法巡礼記」があり、その辺りを通ったことは推測できますが、お寺を訪ねたという記述はありません。話としては無いわけではない、非常にうまい話なので真偽の程はどうなるか分からないので、今後の検討課題であります。
円仁の後に唐に渡った円珍も「行歴抄」という求法の様子を著しています。
円珍は天台宗では遮那行(密教)の先生でしたが、しかしまだ不十分だったので方全に直接伝授を請うわけです。その時胎蔵、金剛という密教の二つの流れを受けるわけですが、最初に胎蔵界を伝授されることになります。6月3日からテキストを読みなさいといわれ、まず筆写して一か月半位勉強します。その後7月15日に灌頂を受け7月20日に伝授の証拠をまとめます。それから「蘇悉地羯羅供養法」を読み、8月、9月の二カ月以上かけて胎蔵界、金剛界を伝授され灌頂を受ける様子が具体的に書かれています。多少の違いはあるにせよ、恵果は同じように空海に課題を与え、理解を見極めた上で伝授・灌頂が行われたのではと思います。
伝授と灌頂が終わると緊張が解け日本で非常に人気のあった詩人・白楽天の墓や、龍門の石仏を見学したなど、勉強だけではなくて観光の様子も記されています。
この日記は日本人留学生が中国で何をしていたのか伺える資料であり、空海の長安での生活も密教の勉強だけでなく我々と同じように楽しみの部分もあったのではと思います。

○遣唐使の廃止について

「承和の遣唐使」から「寛平の遣唐使」までは六十年程間隔があいています。
その間、901年大使である菅原道真が謀反の罪で左遷され、907年には唐が滅亡してしまいますので、何となく終わってしまったというのが本当のところではないかと思います。
実は遣唐使としての往来よりも遣唐使が終わった後の方が中国との交流が頻繁になりました。そう考えると遣唐使は日中関係の入り口なのです。源氏物語を読んでも、平安貴族は唐物と呼ばれる舶来物に囲まれた生活をしていて、それが格の高さを表し、中国の物が日本に充満するようになります。ですから遣唐使だけに日中関係を求めないで、それ以降の唐・宋商人を媒介とした日常的な交流が広まっていったのも遣唐使が終わった理由ではないかと思います。

(構成/智山教化センター)