教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第17回 愛宕薬師フォーラム平成26年9月12日 別院真福寺

祈り~伊勢神宮と日本人

講師:伊勢神宮崇敬会理事・神宮評議員 入澤 肇 先生

日本人と神道
皆さん、昨今の日本の風潮に対して、どのようにお考えですか。私は日本の現状から、将来に向けて危機感を覚えております。
日本は資本主義国家です。ここ二十年くらいでグローバリズムという考え方は企業を中心に浸透してきたと思います。その考え方自体は悪いことではありませんが、格差社会が広がっているのも事実です。年収一億円の経営者と二百万円以下のサラリーマン。
皆さんは“ジニ係数”という言葉をご存知ですか。主に社会における所得分配の不平等さを測る指標なのですが、ゼロに近いほど格差が少ない状態です。二〇一一年の日本のジニ係数は0.5を超えていて、これは、慢性的暴動が起こりやすいレベルといわれているのです。日本は、税制と手厚い社会保障があるから秩序が保たれている、といっても過言ではありません。
日本はいつからこのようになってしまったのでしょうか。世界でも名だたる労働者を大切にする国だったのに、今や「ブラック企業」なんて言葉まで存在している。「オレオレ詐欺」なんかも、時代の象徴ですよね。実行グループの犯人は「老人のタンス預金を引き出して、我々が夜の街で使っているのだから資本主義の活性化に役立っているんだよ」などと支離滅裂なことを嘯(うそぶ)いている。
私たちは最近、大きな自然災害を経験して、あらためて心をこめて祈ることの必要性を感じていると思います。もう一度、原点に帰って、日本人の霊性を確認することが大事なのです。
日本の神道の精神そのものが日本人の中から失われているのではないかという危機感があります。神道の二つの柱は、自然崇拝と祖先崇拝です。自然の中に超自然的なものを直感して、そして畏怖の念をもって自然と共生をはかる。これが神道の神髄です。神道は穢れを抜きにして、祓(はら)いたまえ清めたまえといい、精神を高めて神と対話するのです。仏教は色々な修行をして、解脱、悟りに行く道を論理的に教えている。日本では神道と仏教が両立していますが、神道が基層にあります。基層宗教といいますが、対して、仏教は普遍宗教といいます。この二つの宗教が織り交ざって日本人の根幹を形成しているのです。

伊勢神宮と式年遷宮
私が伊勢神宮を初めて訪れたのは、高校三年の修学旅行の時でした。世の中にこんなに清らかな場所があるとは、と感動しました。心が震える場所だったのです。これが信仰の始まりであったのかもしれません。信仰心というのは大切で、実は法律にも関係してくるのです。例えば、クローン技術規制法という法律がありますが、クローン人間を造ったら罰金いくら、とやっても、いくらでも法を破る者は出てくるのです。信仰心がないと道徳を守ることができない。そして、道徳心がないと法律を作ることはできないのです。
ところで、皆さんは、伊勢神宮について世界的な文化人がどのように評価しているかご存知ですか。ドイツにブルーノ・タウトという世界的な建築家がいます。彼は桂離宮や京都の寺社仏閣について、日本の美を絶賛して世界に紹介した人なのですが、伊勢神宮についてこのように語っています。

「日本が世界に送った全てのもののなかで、もっとも厳選されたものだ。そして日本のまったく独自な文化の鍵を握るのがこの伊勢神宮だ。さらに全世界の賛嘆惜く能わざる、完全な形式を備えた日本の根源だ」

また、歴史学者のアーノルド・トインビーはこういっています。

「世界宗教の統一体をこの伊勢神宮に見ることができる」

伊勢神宮は、五千五百ヘクタールの広さがあって、これは甲子園球場の千三百倍です。ちなみに明治神宮は七十ヘクタールです。この広大な伊勢神宮を連綿と何一つかけることなく維持管理している。大変素晴らしいことだと思います。

そこで、式年遷宮でございます。式年というのは、一定の年という意味で、伊勢神宮では二十年毎に遷宮を行っています。六六八年に勅令が出され、六九〇年持統天皇の下で第一回の式年遷宮が行われました。途中、応仁の乱で中断した時期もありましたが、現在まで連綿と続いています。全社殿のみならず装束、神宝など伊勢神宮内のすべてを二十年毎に新しくするのです。江戸時代までは、以前のものは全部燃やしてしまうという徹底ぶりでしたが、現在は神宮宝物館に保存しています。
式年遷宮が目指すものは「常(とこ)若(わか)の思想」というのですが、これは字のとおり、生まれ変わらせて永久に若さを保つという意味です。
では、何故二十年毎に行うのか。これは不思議なことだと思っています。二十年だと木造建築ならば朽ち果てる前に建て替えられる。神様をそこにお迎えするわけですから、遷宮するからといって、その前の最後の数年が神様に失礼なものであってはいけない。また、技術の継承の問題もあるでしょう。細部にわたるまで一つも疎(おろそ)かにせずに継続しているわけですので、(職人や神官等)継承する側も継承される側も二十年というのはちょうど良い期間なのかもしれません。
ただ、私は「神意計り難し、神意計るべからず」だと思っているのです。私は官僚時代、政治家時代、数多くの困難な問題を、ある意味、神がかり的に乗り越えてきました。この言葉は、自分がそのような困難に遭った時に思いついたのですが、神さまの神意、心は計り難い、いや計ってはいけないのだと。神さまは我々凡人に、人間には分からないことを指示してくださる。その一つが二十年毎に行う式年遷宮ではないかと思います。木材だから朽ち果てるとか、技術を伝承しなくてはいけないとか、神さまの住まいだからいつも新しいまま維持しなくてはいけないとか……。色々いわれますが、それ以上に二十年に一度遷宮を行うということは、我々には計りしれない神さまのお考えがあるのではないか。人間がやたらに解釈したりしてはいけないのではないかと思っています。

祈りは誓い、誓いは……。
「正義」について少しお話しましょう。歴史的に正義というものは四つあります。一つは平均的な正義。機会の平等のことです。二つ目は結果的な正義。配分的な正義といってもいいですね。
三つ目は、手続き的な正義です。これはアメリカから輸入された正義観です。手続きを正当に踏まないものは、どんなに結果が良くても正義ではない、という考え方です。日本の刑事訴訟法もそうですね。
もう一つは、日常生活的にやっている衡平的な正義です。要するに具体的な妥当的正義です。例えば、人付き合いでバランスの取れた判断をするのが衡平的正義です。政治家もそうですね。
そして、これらの正義の究極にあるのが「愛」なのです。正義、そして「愛」は祈りの根源だと思います。
丸山眞男が『日本の思想』という著書で「日本の思想そのものは無限抱擁だ」と書いています。日本の神道は仏教が入ってきて、仏教と共生する。キリスト教は歴史的、政治的に排除されることはあったけど、キリスト教の精神を別に神道は否定していない。イスラム教についても、信仰者は少ないが、拒否しているわけではない。神道は「無限抱擁」として何でも包み込んでしまうのです。
この「無限抱擁」を別の言葉でいうと「愛」そのものだと思いませんか。愛というと、エロス(性愛)、ピリア(友情)、アガペー(隣人愛)がありますが、これら三つの究極にあるものが「無限抱擁」なのです。神道の極意といってもいいかもしれません。
「愛」とか「正義」は抽象的な概念ではありません。行動がともないます。祈りも同じです。感謝・懺悔の気持ちで祈る……。
祈るとは誓うことであります。誓うとは何でしょうか。誓うとは(目的へ向かって)努力することなのです。「祈りは誓い。誓いは努力」これは私の一番の信仰観といっていいかもしれません。

(構成/智山教化センター)