教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第5回 愛宕薬師フォーラム平成23年9月29日 別院真福寺

江戸の七福神めぐり―生活の中の神仏習合―

講師:民俗学者 神崎 宣武 先生

平成二十三年九月二十九日(木)午後二時より別院真福寺・地下講堂において、第五回の愛宕薬師フォーラムを開催しました。 
「江戸の七福神めぐり―生活の中の神仏習合―」をテーマに、民俗学者の神崎宣武先生をお迎えし、お話しいただきました。
以下、当日の講演を要約してお伝えします。

 

皆さまのお顔を拝見しますかぎり心配はないのですが、最近は日本人として日本の文化をあまりにも知らない世代が登場し、今後、社会にどういった影響を与えていくのか、心配しなければならない時代になりました。若い世代の問題だけではありません。たとえば、学校で仏教や神道など日本の宗教についてほとんど教えてもらっていない。家でお年寄りがいれば、宗教的な生活習慣を見聞きする場面がありますが、それも核家族化などの影響で無くなってしまっています。その結果、どうなったのかというと、日本の大学において宗教学や国文学という学問が成立しにくくなりました。仏教系や神道系の大学の一部でそれぞれの宗派についての教科はありますが、日本の大学で、神仏が相まってどのような流れを辿ってきたかという一般的な宗教学の講義がほとんど無くなりました。

私が三年前にロンドン大学に寄留していたときのことです。ロンドン大学には東洋アフリカ研究所(SOAS)があり、日本の宗教学を熱心に研究しています。知人のジョン・ブリーンという学者は、いまや神道学研究の第一人者と呼ばれています。今、SOASの中で一番人気のコースが中国文化の研究で、その次が日本文化となっています。海外では日本の文化、日本人の宗教観に対する関心が高まっているにもかかわらず、多くの日本人が調査票などに「特に信仰している宗教は無し」と書きます。私の知人も、ロンドン大学のSOASを受験した時に、内申書の宗教を記載する欄に「無し」と答え、不合格になりかけました。海外で「宗教無し」と記載すれば、「私はどこの馬の骨かわからない」と宣言しているのと同じで、信用されません。 日本の家庭の多くには仏壇があり、神棚があります。生活に根付いた神さま、仏さまとの付き合い方があります。それを昔の人は「神さま、仏さま、ご先祖さま」といいました。しかしそれは今、古臭い諺として忘れ去られようとしています。諺というのは文字に頼らない社会での原理原則を詠んだものが多いのです。

例えば、今はご飯を炊くには電気釜のスイッチを入れればよいのですが、昔は竃の火を加減しながら焚かなければなりませんでした。ちゃんと焚けるようにお祖母さんから伝えられた原理原則の諺があります。「初めちょろちょろ 中ぱっぱ ぼうぼういったら火をひいて 赤子泣いても蓋取るな」です。生活の原理原則を教えてくれた諺が忘れ去られてしまうほど、私たちの文化的な伝承力が衰えてしまっています。同じように「神さま、仏さま、ご先祖さま」という私たち日本人の精神の原理原則、日本人の信仰観を表した言葉もわからなくなりつつあります。

多くの日本人は、子どもが生まれればお宮参りに行き、身内が亡くなればお寺さんに頼んでお葬式をします。初詣をし、お盆でご先祖さまを迎え、結婚式を教会で行う人もいます。こうした宗教観は海外では理解されにくいものです。しかし、これこそが日本人の宗教観であり、"日本教"というべきものだと思います。私は、ロンドン大学を不合格になりかけた知人に、宗教欄に"日本教"と書かせて再提出をすすめました。知人のジョン・ブリーン博士にもその経緯を話したところ「日本教でよろしい」と承認をされました。

日本教を別の言葉でいえば"神仏習合"となります。神仏習合の歴史は古く、平安時代末期から、一般的には鎌倉時代から室町にかけて信仰が盛んになっていきます。寺院の勢力が強いところは、寺院の境内地に守護神としてのお宮が造られ、神社の勢力の強いところは守護寺としてお寺が建立され、神さまと仏さまが共存する形ができあがっていきます。私たちはお寺参りをすればお宮参りをし、お宮参りをすればお寺参りをしていたのです。家庭の中では神棚と仏壇となって伝わってきました。ところが明治政府はこれをほとんど一晩の内にひっくり返しました。ヨーロッパの近代国家には国の宗教たるキリスト教があるということで、そこで仏教と神道を切り離して、国家神道をつくりあげたのです。神道を公事に使い、仏教は私事に使うこととし、仏教はお葬式中心に展開していくのです。これは明治以降のことであり、それまでは、私たちはそれぞれの集落や家庭で「神さま、仏さま、ご先祖さま」を同居させて祀ってきたわけです。

歴史に「もしも」はありませんが、もしも明治政府が「神さま、仏さま、ご先祖さま」を以て日本国の宗教、すなわち日本教と総称してくれていれば、現在のような混乱は起きなかったと思っています。私は"神仏習合"こそ、日本人の宗教観の根底に流れているものだと思っています。私はこれを以て日本教と呼ぶことを正しいと考えています。

仏教の中でも天台、真言の密教と土着の古代神道は近い信仰を持っています。例えば、どちらも"山"を大事な精神の拠り所とします。古い地図で山の名前を見ればよくわかります。「御山」「天神岳」「大日岳」など神さま、仏さまの名前の付いた山がどれだけ多いのかがわかります。私たちのご先祖さまは山を神、仏と崇め、神、仏を里へ降ろして様々な行事、儀式を行ってきました。このような原始信仰上の接点があるので神仏習合が成り立つのです。しかし、現代ではこうした山への観念も薄くなっています。

仲良くできるものは融合させていこうとする日本人の考え方が神仏習合という宗教観をつくりあげました。この考え方から生まれたものが"七福神"です。七福神は江戸でできた複合的な信仰です。神仏習合の精神的な土壌がある私たちは、神さま、仏さまの本来の威光や功徳を離れてでも、自分たちに益する形で流行神をつくっていきます。流行神がこれだけある国は世界中どこにもありません。こうした融通無碍の発想でつくりあげた流行神の最たるものが七福神です。 
私たちは現代も、本来の意味など追求せず、パワースポットと称して流行神をつくりあげています。例えば、東京大神宮は明治時代に伊勢神宮を遥拝する神社として造られましたが、誰が言い出したのか、今は婚活の神さまと呼ばれ、数多くの独身女性が訪れています。

教祖がおり、教義があり、生活が規制される一神教と、つまり世界基準の宗教と日本人の信仰は違います。日本人は実に自分たちに都合のいいように信仰をつくりあげてきました。一神教に対して多神教の信仰をもつ国ではこうした傾向がありますが、国中いたる所の四つ角、道端で、地蔵堂、観音堂、権現堂などと呼ばれる堂や祠があり、石に刻まれた神さま、仏さまが祀られているのが日本という国です。

元禄から文化・文政の頃、町民文化が花開いた江戸において、七福神の信仰が盛んになりました。七福神を描いた宝船の図がありますが、百年程の間にその図が変化をしていきます。初期の頃の図には、船の上に現在みる様な、一般的な七福神は乗っていません。船の帆には夢を食べる動物といわれる"獏"の文字が書かれています。悪い夢は獏に食べてもらうために、正月の初夢を見る日にこの図を枕の下に置くことが流行りました。やがて宝船の帆から獏の文字が消えて、米俵だけになり、続いて財宝だけが描かれる図となります。つまり悪い夢を払うという考え方が消えて、いい夢だけ見ようという考えになります。その後しばらくして宝船に七福神が乗り込みます。

図1『風俗画報』224号(明治34年1月20日)より

ところで、七福神はほとんど外来の神仏です。恵比寿さまを日本古来の神さまと見るか見ないかは見解がわかれるところですが、夷という古い言葉には海を渡って他所からやってきたという意味があります。民俗学での所見は、太平洋の黒潮が流れている薩南諸島、土佐、紀伊、伊豆七島あたりでのエビスというのは鯨のことであり、迷い込んで浜に打ち上げられた鯨をエビスと称します。漂着の死体を指すところもありました。そうした漂着の異形異相の類をエビスと呼んで海岸べりにまつり、それが漁業の神さまとなっていきます。

元来、恵比寿というのはよい印象の言葉ではありません。しかし、それがやがて神さまになっていきます。これも日本の信仰の特徴です。他にわかりすい例では鬼です。物語で悪者として登場する鬼ですが、鬼は降参し悔悛すると神仏を護る眷属となります。日本では災いをもたらすものが、どこかで切り替わって人々に幸福をあたえるものに変わっていきます。七福神も元々めでたい神格を具えていたものはほとんどいません。このような許容性のある日本人の想像力を、私は素晴らしいと思います。しかし、恵比寿さんがいい神さまになるためには、日本の老舗の看板を借りなければなりません。それが『古事記』『日本書紀』に出てくる神さまであるところの事代主命です。恵比寿は事代主命と習合して、物語が加えられ福の神に変わっていきます。

大黒さんは大黒天といい真言宗では胎蔵曼荼羅の最外院に描かれている神さまです。曼荼羅に描かれている天部の神さまは、ヒンドゥー教から仏教に帰依することになった外来の神さまです。曼荼羅の中には大黒天の他、毘沙門天(多聞天)、弁財天なども描かれています。曼荼羅に描かれている大黒天は色黒で小太り、忿怒の形相をしています。手は六本あり、戦いをする姿勢をとっています。決して、親しみやすいお姿ではないのですが、それが日本にやってくると福の神に変わります。最初は台所の神さまとして祀られ、続いて田の神になります。余談ですが、能登半島と鹿児島県には単独で祀る田の神がいますが、本来、日本には単独で祀る田の神さまはいません。田の神は田植え前の必要な時期に山から呼んで祀りました。そして福の神になる時に、恵比寿と同じように大黒天も『古事記』の中の大国主命と習合いたします。いずれにしても、庶民に恵比寿・大黒がめでたい神さまだと認知されるようになるのは、江戸の七福神の信仰が広まってからです。

同じように毘沙門天も弁才天も神格を変えていきます。福禄寿、寿老人、布袋和尚は中国で禅画に好んで描かれた人物です。七福神の流行は、複合的に都合のいいようにつくりあげられ、江戸の文人たちが七福神のそれぞれの徳を面白おかしく取り上げて宣伝した結果です。「萬よし」と書かれた引札の図には「大黒さんは工面よし、恵比寿さんは漁がよし、寿老人は学問がよし、福禄寿は思いつきよし、布袋さんは胆がよし、毘沙門さんは力がつよし、弁財天は器量はよし」と七福神の神徳が書かれ、そのまわりには「作がよし、お世辞よし、仲がよし」と書かれ、お目出度づくしになっています。引札とは現在のチラシのようなものですが、江戸では語呂合わせ、言葉遊びをしながら、七福神の徳を伝えるキャッチコピーを数多く作り出しました。 

図2 「萬よし」と書かれた引札

では何故、江戸の町で七福神信仰が起きたのでしょう。これまで申し上げましたように日本人の信仰は「神さま、仏さま、ご先祖さま」であり、融通性をもって神仏は習合します。当時、江戸の町は世界最大の巨大都市です。江戸の中期で百五十万人の人口であったといわれています。江戸時代は全国各地に二百七十余の藩があり、それぞれが国でした。言葉も文化もさまざまです。例えば、参勤交代で江戸に来た九州と東北の人同士が言葉を交わして通じ合うようなことは起こり得なかった。一民族一言語という観念は明治時代になって国家統制として行い、つくられたものです。江戸時代は各藩によって言葉も考え方も違う。そういう人たちが江戸に集まるわけです。江戸は集合都市であり、今の言葉を使って大胆にいえば多民族都市だったのです。そのためには新たに基準を設けなければならない、それが江戸独自の言葉であり、江戸独自の信仰であったのです。江戸で信仰を広めるには、格式が高く、しきたりを重んじる神仏を国元から江戸にもってきても、それぞれの藩によって信仰する神仏が違うので広まっていきません。江戸で稲荷信仰が広まった理由も、お稲荷さんが手軽に祀れ、江戸の各家々に必要な屋敷神として適していたからです。そして、お稲荷さんを祀りたいといえば、誰もが御神体をいただくことができたからです。例えば、京都の伏見稲荷から分身を頂戴することに厳しい条件がありません。今でも、東京を上空から見れば、お稲荷さんを祀った鳥居をたくさん見ることができる。それは江戸時代に各屋敷で守り神、商家では商売の神さまとしてお稲荷さんを祀ったからです。江戸に多きは「火事に、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬のくそ」といわれたように、稲荷信仰が広まりました。同じように福の神である七福神は、どの神さまを取り上げてみても、特定の地方に強いつながりがあるわけではなし、江戸の人々の誰からも異論がでません。いろいろな特性はあるけれども、総称して福の神であるといえば異論はでません。江戸時代に寺社で七福神めぐりができたのはこうした理由からです。

こうした日本独自の融通性、集合性をもった宗教観、信仰を現代の私たちがどう捉えていったらよいか。私は、こうした信仰心は幸せな世の中の象徴であると思っています。歴史をふり返ってみても、日本が一宗一派に偏った時は不幸な時代であると思います。私たち日本人は天地の恵みに感謝しながら、先祖から子孫に至るまでを平穏につないでいくために神仏を習合させてきました。神仏習合は争いの無い平和な時代を象徴するものであり、これを日本教として、世代を超えて後世に伝えていくべきであろうと思っています。

時間がまいりましたので、これでお話しを終わりたいと思います。ありがとうございました。

(構成/智山教化センター)