教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第10回 愛宕薬師フォーラム平成24年11月22日 別院真福寺

心を鍛える仏の教え ―仏教童話から学ぶ慈悲と無常(空)―

講師:東京大学大学院人文社会研究科附属 次世代文学開発センター特任助教  東 ゆみこ 先生

苦しみを取り除くため

みなさま、こんにちは。東でございます。本日の講演のタイトルは、「心を鍛える仏の教え―仏教童話から学ぶ慈悲と無常(空)」となっております。慈悲と無常(空)というのは、仏教の中で最も大切な二つの教えです。 
慈悲とは、「すべての生き物が苦しみから解き放たれ、幸せを得られますように」と願うことで、慈悲心が進むと他者を救うために悟りを得たいと欲する菩提心(ぼだいしん)へとつながっていきます。一方、無常(空)とは、世界のあらゆる物事が私たちに見えている通りのあり方をしていない、物事の本質はない、物事には独立した実体はないという考え方のことです。 
この二つがなぜ仏教の中で重要な教えだとされてきたのかということですが、そもそも仏教は苦しみを取り除きましょう、苦しみを取り除くためにはまず、自分が直面している具体的な苦しみに気づきましょう、というところからスタートしています。では、苦しみを取り除くためにどうすればよいかというと、まず苦しみとは何かを理解する必要があるわけです。そこで、人間が苦しむ原因について考えていくと、少し難しいのですけれども、私たち人間や事物が独立して存在していると思っている考え方が、苦しみを生み出す一番の根本になっているということがわかってきます。つまり、物事に本質があると思っていること、物事は無常なものであるにもかかわらず、いつまでも変わらずに確実なものとして続いていくと考えること、これが間違いなのです。そして、事物が確かに存在しているという誤った考え方を土台として、我欲や利己心というものも生まれてくる。けれども、その考え自体が苦しみのもとであり、その苦しみを取り除くために必要なのが慈悲心の涵養と無常(空)の考え方であると、お釈迦さまは気づかれたわけです。

動機の重要性 

本日は、利己心による苦しみについて具体的に考えた後に、それと物事を実体視することによる苦しみがどのように関わっているのかについて、仏教童話や私自身の体験を交えながらお話ししてみたいと思っております。 
まずは利己心による苦しみについて、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を手がかりに考えてみたいと思います。普通、この物語は因果応報、つまり良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果がもたらされるということを描いたカルマについての物語だとみなされています。けれども、『蜘蛛の糸』で問題になっているのは、私たちのふるまいの正しさよりも、私たちが何かをする時の動機のありかたなのです。見過ごされがちですが、仏教においては、外面的に良い行為をしていればそれでよいわけではなく、行為の際にどういう動機で行ったかということが重要とされています。本日のテーマと関連づけて述べると、利他心ひいては慈悲心、すなわち相手の幸せを願う心に基づいて行為を行うのが良く、自分のために行為を行うのは良くないと考えられています。 
しかしながら、実際の社会の中では、良い動機を持っていなくても、成功した人の行いを表面的にまねしさえすれば同じような結果が得られることがあります。例えば、アメリカの建国の父として有名なベンジャミン・フランクリン。彼の自伝には「勤勉こそ富と名声を得る手段」であり、「正直と誠実とは、貧しい者が立身出世するのにもっとも役立つ徳である」と書かれています。つまり、正直と誠実は道徳的に良いから行うのではなく、世間的な信用を生み、成功を収めるために有益であると述べているのです。このフランクリンの自伝の文章に着目した社会学者マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、フランクリンこそ初期資本主義の精神の権化であると指摘しています。つまり、外側の行為の立派さだけで十分だという考え方が、現代の資本主義の世界の根幹にあったと言うのです。 
私たちは、外面的な行為が重視され、動機や内面をとりたてて問題にしなくてもよい、そういう考えに基づいた資本主義の世界に生きています。しかし、ここで考えなければならないのは、どうして仏教が動機を重んじているのか、ということです。そこで、動機、さらには利他心、他人を思いやる心について、私と仏教との出会いにとって重要な伯母のエピソードを紹介しながら、もう少し具体的に考えてみたいと思います。

利他行の実践 

私の伯母は旅館の女将をしていましたが、私は幼稚園の頃から小学校の一、二年生の頃まで、学校が休みになるたびに、母が仲居をしていた伯母の旅館で過ごしていました。伯母は若い頃は優秀な海女で、その稼ぎで当時家が一軒建てられるほどのお金を貯めたのです。しかし、そのお金を父親、つまり私の祖父が一晩のうちに全て酒代で使ってしまい、さらに、その父親が倒れて寝たきりの状態になってしまいました。そして長女である伯母が自分の年の離れた弟や妹たちを養う必要が出てきた矢先、ある旅館の女将が伯母の噂を聞いて養女にしたいと申し出てきたため、伯母は旅館の養女となり、海女とは全く関係のない商売を一から覚えて女将になった。そういう人です。 
さて、私が旅館を手伝った昭和50年当時、旅館には毎朝9時ごろになると、行商のおばさんたちがその日の朝に海でとれた魚をリアカーに乗せて売り歩いていました。行商が来ると、伯母は厳しい調子で値段の交渉をし、結果として買わなかったということもありました。それを見ていた私の母が、私にちらっと、伯母の口調が悪いこと、前回伯母が買わなかった魚は傷みが激しくなって売り物にならず捨てられてしまったことを告げました。 
それを聞いた時、私は行商のおばさんたちがかわいそうになってしまいました。というのは、当時、私は子ども向けに書かれた本の中にある釈尊の「四門出遊」の話を読んでいたからです。そこには「重い荷物を引いている人などを見るたびに、シッタルタ(=釈尊)はかわいそうに思って考えこんでしまう」という箇所がありましたが、「重い荷物を引いている人」とは、私にはリアカーを引いて魚を行商していた親子のおばさんたちに思えたのです。そこで私は伯母の息子(私のいとこ)に本を見せながら「行商のおばさんがかわいそうだから、お魚をいつも全部買ってあげられないかなあ」と相談めいたことをしました。 
すると、それから少し経ったある日、伯母が突然、私と私の母がいる前にやってきて、「ゆみこ、あんたはあたしに本当に良いことを教えてくれた」と言いながら、いきなり七歳だった私に頭を下げました。どうも、私のいとこは伯母にこの前の出来事を話したらしいのですが、伯母は私に「先代の女将から業者には甘くするなと教えられて、ずっと言いつけを守ってきたけれども、間違いがあったことに気づいた。それに気づかせてくれたのがゆみこだ」と言ったのです。私の母は慌てて「子どもの言うことだから」と取りなしたのですが、伯母は断固とした口調で、次にように述べました。 
「いいや。こういうことの前には大人も子どももないんだ。今はあたしとゆみこで、人間として対等に話をしているんだ。子どもだろうが、大人だろうが、こういうことを教えてくれた人に、心から誓わないとダメなんだ。ゆみこ、おばさんはきっと生まれ変わってみせる。だから、見ててくれ」と。 
そして次に、行商のおばさんたちが旅館にやって来た時、伯母は「今まで本当に申し訳ありませんでした」と謝り、「あたしにできるのはこれだけだから」と言ってチップを渡していました。それからというもの、伯母は魚を買わない日に、あるいは旅館に出入りしていた他の業者の人たちに、チップを渡すようになったのです。 
私が伯母のことを思い出すたびに確信するのは、仏教童話がひとりの人間の生き方を変えたということです。今考えてみると、伯母は無自覚だったかもしれませんが、仏教童話をきっかけに慈悲の心を持つよう努力し、利他行の実践をしていたのです。

慈悲と空性 

ところで、この伯母に関して、一つだけ気になっていることがありました。それは、思いやりの心を持ち、忍耐という心の訓練を積んでいたと思われる伯母が、その後どうしてお金の問題に悩み、怒りをためこんだ結果、脳溢血と心臓病をわずらって亡くなってしまったのかということです。 
ところがある時、仏典を読んでいたら、なぜ伯母が力尽きたのかがわかったのです。仏教において心を鍛える際には、菩提心(慈悲心)と空性という二つの翼が必要なのですが、伯母は慈悲心というたった一つの翼だけで飛ぼうとしていたのです。 
本日の講演テーマは仏教の中で最も重要な教えであるとされている慈悲と無常(空)だと述べました。この2つがなぜ重要なのかというと、私たちが改めなければならない誤った考えを解決するために必要不可欠なものだからです。誤った考えの一つめは、私たちはみんな自分というものを非常に大切なものとして考えていること。二つめは、自分というものも含めて物事がいつまでも変わらずに確実なものとして続いていくと考えることです。そして、この二つの誤った考え方を土台として苦しみが生み出されるのですが、その苦しみを断ち切るのに有効な教えが慈悲と空性なのです。 
伯母が実践していたと思われる利他行は、第一の苦しみ、つまり「自分」を一番大切に思うことから出てくる苦しみを少なくすることに大いに役立つ心のトレーニングなのです。しかし、仏教ではもう一つ重要な「空」という教えがあり、これについて完全に理解が深まれば、私たちの苦しみが完全に終焉すると言われています。 
『維摩経』には「方便に支持されない智慧は束縛であり、方便に支えられた智慧が解脱である」「智慧に支えられない方便は束縛であり、智慧に支えられた方便が解脱である」と書かれています。私たちが苦しみから脱却するためには、智慧と方便、空性と菩提心の両者が必要なのです。ですから、仏教を勉強する際には慈悲と空性の二つを学びながら心のトレーニングに努め、心を鍛えていくことが重要だということになります。

(構成/智山教化センター)