教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第6回 愛宕薬師フォーラム平成24年2月1日 別院真福寺

ヒトはどうして死ぬのか~死の遺伝子からみた未来~

講師:東京理科大学薬学部教授   田沼 靖一 先生

○細胞に宿る死

私たちの体のなかでは毎日たくさんの細胞が死んでいます。私たちヒトの、大人の平均的な細胞数は約60兆個といわれ、そのなかのおよそ200分の1、3,000億~4,000億個の細胞が気づかないうちに毎日死を迎えています。これを質量にするとおよそ200グラム、嵩(かさ)にするとステーキ一枚分にもなります。しかし同時に、細胞は細胞分裂により新たに補給もされています。生涯を通して日ごとに死んでゆく細胞の数は変わりませんが、それを補う細胞の再生が加齢とともに少なくなります。高齢になると体が小さくなるのは全体の細胞数が減るためです。
例えば、赤血球の細胞は3ヵ月程で老化し酸素を運ぶ力が無くなり死んでゆきます。そして新たな赤血球がつくられます。肝臓の細胞も1年位で寿命を迎えます。新陳代謝と呼ばれる皮膚細胞の生まれ変わりの周期は28日、古い細胞は垢となって剥がれ落ち、新たなものに入れ替わります。このように老化した細胞をきちんと除去することによって生命が保たれています。
また、細胞は活性酸素や食べ物に含まれる発ガン性物質や着色料、カビなどにより絶えずダメージを受け、キズが多くなるとガン化したりします。こうした体に異変をきたす細胞も免疫細胞が発見し、きちんと除去しています。すなわち細胞の死によって生命が維持されるという、私たちはかなり逆説的なところで生きているのです。

○死の遺伝子の発見

30年程前に病理学者のJ・F・カーは細胞死が遺伝子によって支配されていることを発見しました。あるときカーは、病変を起こした組織の断片を顕微鏡で観察している最中、プレパラートの上に不思議な光景を見ました。それは、死にゆく細胞の様子でした。細胞が小さくなり、小片化した細胞がいくつも見てとれました。それはこれまで、例えばやけどや打撲などによって細胞の組織が崩れ死んでゆく細胞死=ネクローシス(necrosis)と呼ばれる「壊死」とは違ったものでした。そこでカーはこう考えました。細胞が増殖するのと同じように、細胞の死も遺伝子によってきちんと支配されているのではないかと。
カーはこれをアポトーシス(apoptosis)と名付けました。これは非常にウィットにとんだネーミングで、ギリシャ語で"apo"は「離れる」、"ptosis"は「落ちる」という意昧で、英語でいえば"falling off"です。カーは細胞の小片が散る様子を、秋に木の葉が落ちる様子になぞらえたのです。
それまで、膨らみ、破裂して死を迎える「壊死」という言葉で一括りにされていた細胞の死に方に、新たに分類を加えた、カーのこの発見は当時あまり注目されませんでした。しかし近年になって、ガンやアルツハイマーなどの重篤な病気にこのアポトーシスが重要な関わりをもっていることがわかって見直されています。余談ですが、ネクローシスが「壊死」と訳されるのに対してアポトーシスを私は「自死」と訳します。

○アポトーシスの本質と新薬開発

アポトーシスを特殊な方法で観察すると、細胞が死んでゆく時に自らの生命の素であるDNA(遺伝子)をきちんと切断してゆく―、そうやってエネルギーを使って私たちの細胞が静かに消えてゆくことがわかっています。ですからアポトーシスの本質は何かというと、それはDNAを消去し情報を無にするということになります。その切断する実態が酵素であることを私たちの研究が世界で初めて明らかにしました。
ヒトの体をつくる遺伝子はおよそ2万3千個ありますが、その遺伝子は大きく分けると
①生きてゆくために必要な遺伝子
②自ら死んでゆく遺伝子
③子孫を残すための性の遺伝子
の三つに分けられ、これらがうまく働くことによって生命が保たれています。死の遺伝子があるということは、"必ず死ねる"ということを意昧しています。
もしアポトーシスに異常が起きるとどうなるか。例えばガンは本来死んでいく細胞が死ななくなる病気、つまり何かがアポトーシスを抑制しているために発症しますが、この治療には細胞にもう一度アポトーシスを思い出させる薬が必要になります。逆にアポトーシスを促進する異常から発症するのが肝炎やエイズ、アルツハイマーです。こちらにはアポトーシスを抑制し、うまく働くよう制御する治療薬が開発されています。

○もうひとつの細胞死・アポビオーシス

アポトーシスという細胞の死は、私たちの体のなかのどこで起きているのかというと、すべての細胞で発生するというわけではなく、例えば皮膚や肝臓、赤血球などの再生する細胞に限られます。この再生系の細胞はもとになる細胞(幹細胞)が増殖して、特殊な機能を果たす細胞に変わり(分化)、役割を終えると老化して死んでゆきます。そしてその後、個々に増殖する。このように循環します。ところが、それを永遠にくり返すわけではなく、私たちのヒトの細胞の場合、このサイクルを60回くらい周ることができて、その後、寿命が尽きます。ですから例えるなら、アポトーシスは「回数券」といえます。
それに対して神経系の細胞、あるいは心臓を拍動している心筋細胞などは、生まれた時の細胞の数のまま生き続けるなかで老化し、その数を減らしていきます。そして機能を果たせないほど数が減ると個体としての死が訪れます。この非再生系の細胞死を私は、アポビオーシス (apobiosis)と呼び区別しています。"bios"はギリシャ語で「生命」を意昧しており、"apo"は「離れる」でしたから、アポビオーシスは「生命から離れる」「寿命が尽きる」という意味です。アポトーシスが回数券なら、こちらは「定期券」といえます。
アポトーシスは生きてゆくための細胞死であるのに対して、アポビオーシスは個体の死に直結する細胞死といえます。この二つは同じ細胞死でも、その概念も制御メカニズムも違いますから、分けて考えなくてはなりません。特に薬学を専門とする私にとって、薬の作用メカニズムを考える際、アポトーシスとアポビオーシスのどちらに対して作用するものなのか、きちんと分けて研究しなければなりません。

○二つの細胞死~その生物学的意味~

アポトーシスは再生系の細胞に備わった細胞消去の機能であって、個体の循環のなかにその細胞を戻してゆくもの。アポビオーシスは非再生系の細胞に付与された個体消去の機能で自然の大循環のなかに個体を戻してゆく死であります。そのように、次元の異なる死が二重にプログラムされていることによって必ず生命は更新してゆく―。回数券にあたるアポトーシスは、ある時間(100年位)が経てば使い切るようにセットされていますし、また、アポビオーシスは定期券のように、ある時間(ヒトの場合100年程度)をもらって生きています。
私たちは、有性生殖でオスの精子とメスの卵子を合体させた受精卵から、60兆個の細胞の生命体をつくりあげるなかで、二度と同じ個体が生まれないシステムにいます。つまりこれは、新たな生命が生まれてくる"進化"であって、死があって絶えず生命が入れ替わり更新してゆく。これを遺伝子からみると、遺伝子は生と死を繰り返すなかで、個体のなかで後続してゆく―、このニつの死によって種が保存されてゆくことになります。

○死の起源

私たちの生命は約38億年という気の遠くなるような昔に生まれました。そして、 私たちヒトは、進化しながら五つの生物界(五界=原核生物界・原生生物界・植物界・菌界・動物界)とともに生き、それぞれ進化を遂げてきました。ではそのなかで、死はいつから生まれたのでしょう。
生命の進化を遡ると、生命誕生から約20億年は無死の世界でした。いわゆる一倍体と呼ばれる大腸菌のような生物は遺伝子のセットをひとつしか持たず、その遺伝子を複製により二倍にし、その後分裂を起こし、それぞれがまた一倍体になってゆくように増殖します。遺伝子をコピーし、倍、倍、倍と増えてゆく―、そこには親も子もありません。ここには死が存在しませんでした。
しかし、今から約15億年前に二倍体細胞生物(遺伝子の組み合わせを二つ有す生物)すなわち、オスとメスという父親と母親からもらった遺伝子を両方もっている生物が出現し、そこに初めて死が現れてきました。また10億年昔には、いろんな細胞が集まってひとつの複雑な個体をつくる多細胞化が起きてきます。ここに「"性"と死」が裏腹にあるということがみえてきます。
ヒトの場合、約60兆個の細胞には、大きく分けると、体細胞(体をっくる細胞)と生殖細胞(子孫を残す細胞)がありますが、この生殖細胞は滅数分裂という特殊な分裂を行い一倍体になることができます。生殖細胞は、この減数分裂して一倍体になるときに、父親と母親の遺伝子がランダムにシャッフルされて卵子または精子をつくる「組み換え」という作業を行います。そして別の個体の卵子または精子と合体してまた新たな受精卵をつくり、60兆個の細胞を有する個体をつくりあげてゆきます。
この有性生殖をする生物がこの地球上で一番繁栄しているのは何故かを考えたとき、一つの個体を消去して、受精卵から新たな個体をつくる―不連続な、非常に危ない橋を渡りながら、生命の遮続性を保っている―。そういうなかに我々は生きているといえます。
二度と同じ遺伝子の組成をもった個体は生まれてこない。私たちひとりひとりが唯一無二の個体ということがわかります。

○死のある意味

このアポトーシスとアポビオーシス、なぜこのような死がプログラムされなければならなかったのでしょう。
もし死がなかったら、私たちヒトは無限に増殖を繰り返しこの地球上に溢れ、食べ物と住む場所を失ってゆくことが想像できますが、これは本質的な死の必要性にはなり得ません。食べ物を作り出し、住む場所を開拓すれば良いわけですから……。では、何が本質なのでしょう―。
私たちが生きてゆく間に、その生命のもとであるDNAは活性酸素や食物のなかの発ガン性物質などのストレスによりキズつき、このキズが時問とともに蓄積されてゆきます。生殖細胞がキズを負うと、それは子孫に引き継がれます。またキズついた古い個体(親)とキズを受け継いだ子孫が再び合体する可能性もあります。すると集団のなかにキズが蓄積される「遺伝的荷重」が起こり、種が絶滅する可能性が非常に高くなります。これを安全に回避するためには、ある時間生きてDNAがキズついた個体は、そのD NAを個体ごと消去するシステムをつくっておけば良いわけです。つまり再生系と非再生系の体細胞のどちらにも、ある程度の期間が経つと死ねるプログラムを書き込んでおけば、遣伝的荷重による種の絶滅を防げるわけです。これが生物学的な理由となります。

○死とは何か

私たちは2万3千個のゲノムの集まりとしてひとつの個体ができます。そしてこの個体が死ぬ前に性によって、また新たな遺伝子を作り出してきます。このとき、親からもらった遺伝子がランダムにシャッフルされて新たな遺伝子をつくりだしますが、その遺伝子がどのような組み合わせになるかは誰も知りません。その繰り返しのなかに私たちはいます。しかし、その私たちホモサピエンスも100万年後には絶滅し、次はもう少し小型のホモサピエンスライクな生命体が活躍することが遺伝子の配列の進化から推測されています。つまり私たちは回帰し得ない輪のなかにいます。
もっと宇宙的に考えてみると、私たち生命は有から無、無から有を繰り返す流れのなかで、まったく偶然にいろんな生命が生まれてくるわけです。ランダムにシャッフルされる遺伝子もそうですし、オスとメスの出会いも偶然なのかもしれません。もうこれは「遺伝子が夢をもってこの空間を移り住んでゆく」と捉えるしかないと私は思っています。
二度と同じ個体ができない個別性と多様性のなかで、太陽系のなかで均衡を保っている―。生命はひとつの与えられた必然の死をもっています。そしてその死に向かって生・在・滅という三幕劇を演じて、この空間からまた無へと戻ってゆく―。そういう"絶対の無"に戻ってゆくのが死ではないのでしょうか。

○顕微鏡を覗きながら考える……

死があることによって「自分とは何者なのか」というアイデンティティを問い、追求することができるのではないか、ということを思います。ヒトの脳は百年位が自分というものを問える時間で、それが仮に寿命が三百年、五百年あったとしたら……、自己性を問うことができず生が空虚なものになってしまい、生きられないのではないでしょうか―。ちょうど良い時間が与えられているのだと思います。
そして、私たちは唯一無二の存在として二度と繰り返さない一回性のなかに生きているということは、私たちひとりひとりに何か求められているものがあるのだと思います。「自分自身の本分は何か」ということが問われているのです。こうしたものを考えさせてくれるのが死なのではないかと、日頃、研究しているなかで感じています。

○死の遺伝子からみた未来

死は芸術や哲学、宗教の最も根底にある命題といわれています。哲学から派生した自然科学において、これまで死が研究の表舞台に立つことはありませんでした。しかし近年クローズアップされるようになり、死から生を捉え直してゆこうとするなかで生命の本質がみえてくるのかもしれません。そこで新たな生命観・死生観が築かれ、社会的にも重要な役割を担ってゆけるはずです。
この宇宙空問で死というものがすべてのものに階層的に存在しているのではないかと捉えることもできます。細胞を個とし、ヒトを全とすると、細胞一つ一つに死があり、また個体としてのヒトにも死が備わっている。今度はヒトを個として、字宙を全としても同じことがいえます。地球にしてもあと50億年後には太陽の膨張に飲み込まれます。つまりすべてのものに時間と階層的な死が存在しているといえます。すなわち、死によって個と全に有時間性が与えられているのと同時に無時間性の永遠に戻る―、白然の大循環に帰るということなのだと思っています。そういう大循環を回す駆動力が死といえるかもしれません。
生から死をみると、死はずっと向こうの霧のなかに包まれている存在かもしれません。しかし死という終焉の場から現在の自分を見つめ直すと、そこに新たに未来への入り方がみえてくるのではないでしょうか。これをマイケル・J・フォックス主演の映画「Back to the future」になぞらえて、私は「Back to the present」といっています。
そして、そこからみえてくる生の意味とは、愛情と善い精神を次の世代に残すこと―、それが生きる意味なのではないかと私は考えます。
李白は「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」と詠みましたが。「生物は一代の逆旅にして、遺伝子は百代の過客なり」と置き換えるとよくわかります。つまり生物は一代限りの宿屋であって、遺伝子はそこを永遠に流れていく旅人なのでしょう―。
最後に、よく科学と宗教は分離したものとして捉えられますが、互いに補完し合いながら進んでいくことによって、新たな見方が出てくるのではないかと思っています。いずれにしても、死を根底にしながら、宇宙のリズムと全てのものが移りゆく万物流転のなかを生きるわれわれにとって、科学と宗教がより良く生きるための道を照らせると信じています。

(構成/智山教化センター)