教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第43回 愛宕薬師フォーラム令和5年9月11日 別院真福寺

「自と他の間にある利他」

講師:美学者 伊藤亜紗先生

利他学の背景

 私は理工系の大学で芸術を教えています。専門の研究は美学です。美学は感性や身体感覚など、言葉で表現しにくいものを、あえて言葉を用いて研究していく学問です。その中で、私は人間身体感覚について関心を持っています。身体というと、抽象的な人間の身体が存在するように思いますが、実際には私たちの身体は、人それぞれに違った特徴や性質を持っています。そこで多様な現実の身体に注目し、特に障害を持った方々が、その身体をどのように使い、どのように世界を捉えているのかを研究しています。これまでも視覚障害、聴覚障害、吃音、認知症の方々にお話を伺い、その身体感覚について研究してきました。

 一方、大学の方では、二〇二〇年に未来の人類研究センターが発足し、ここで「利他」をテーマとした共同研究がスタートしました。偶然にもコロナ禍で世界的にも利他ということが注目された時期に、政治学、歴史学、宗教学、科学史など、さまざまな分野の研究者が集まり、研究が始まりました。なぜ理工系の大学で、利他について研究しているのかといえば、理工学系の研究者は、よく自分の研究が「人間の幸福のためになる」とか、「社会の役に立つ」といったりすることがあります。しかし、そこで想定されている人間の幸福とは何か、社会とは何かということを、もっと丁寧に考えていかないと、人間というものを単純化して考えてしまうことになるのではないでしょうか。そうして単純化された人間の幸福を実現するために科学技術が存在するのだとすると、科学技術としても、きっとよくないものが生まれてしまうでしょう。そうした反省から利他というテーマを考えていこうというのが研究の背景になっています。

 

利他の毒

 利他という言葉は、コロナ禍において世界的に流行しました。当時、利他の考え方を喧伝して注目されたジャック・アタリというフランスの経済学者がいます。彼は、利他とは「合理的な利己主義に他ならない」といいます。新型コロナウイルスの感染予防を例として考えるとよく分かりますが、他人に感染させないようにするという利他は、結局自分が感染しないという利己的な結果になる。利他的に行動することは結果的に自分のためになるのだから、それが最も合理的だという発想で、彼の立場は「合理的利他主義」といわれます。

 でも、これはどうなのでしょう。もちろん、利他と利己は切り離せない関係にありますが、利他の行為すべてを利己に回収させてしまうのは少し寂しい気がします。わざわざ利他という表現を使う必要もないでしょう。

 それから、コロナ禍以前から英語圏で流行していた「効果的利他主義」。これはピーター・シンガーという哲学者が提唱したものですが、「私たちは自分にできる〈いちばんたくさんのいいこと〉(最も効果的なこと)をしなければならない」という発想です。例えば、先進国で盲導犬一匹を教育するのに必要なお金と、発展途上国で目の病気を予防するワクチンを三百人分接種する費用が同じだとしたら、後者の方が効果的だから後者に寄付すべきということになります。しかし、利他的行為が数字的に評価されることに、どこか違和感を覚えます。

 また、利他ということが行き過ぎてしまうことを「病的な利他」と呼ぶ研究者もいます。自爆テロも見方を変えれば、自己の命を犠牲にしてまでも、ある人たちの理想や願望をとおそうとする利他的行為といえます。けれども、それは明らかに行き過ぎた利他です。人類学者のジョアン・ハリファックスは、利他性が有する陰の部分を認めて「エッジステート(利他の崖)」と表現しています。利他ということを軽々しく扱うと、逆に害につながってくるということも確認することが大切です。

 人類学者のマルセル・モースは、『贈与論』のなかで「ギフト」という言葉が、ゲルマン語圏で二つの意味を持つことに注目しています。一つ目は「贈り物」。二つ目は「毒」です。贈り物はそれをもらうことで暗黙の返礼義務が生じます。それがどんどん蓄積していくと、結果として相手との上下関係を作り出してしまう。モースはそれが「毒」の意味であるといいます。贈与や利他の中には支配という毒が含まれていることがあるのです。そのようであれば、こうした利他の毒を、どのように解毒するのかが大切になってきます。

 

Aさんの新潟旅行

 利他の解毒について一つエピソードがあります。全盲の女性Aさんは、十五歳で網膜色素変性症が進行し、十九歳で失明しました。目が悪くなってから、周囲の人に守られる安全な環境で生活していることに対して、かえって大きな失敗をしてみたくなったAさんは、ある日、思い立って細かな計画を立てずに盲導犬と一緒に新潟に旅行に出かけました。

 予定を立てずに新潟に到着したAさんは、そこにいたおじさんに声をかけて、おすすめの観光地を尋ねました。すると「展望台に行ってごらん」と勧められました。全盲の私に展望台?と思いつつも展望台に向かいます。

 展望台に到着すると、全盲の人が展望台に来たということで、スタッフたちは大慌て。でも、しばらくするとスタッフの方々はAさんに声をかけて、展望台から見える風景を、言葉で説明してくれたのだそうです。Aさんはそうしてほしいと頼んだわけではありません。でもAさんが一歩歩くごとに、そこから見える風景を、一生懸命に言葉にしようとして頑張ってくださったことがとても嬉しかったそうです。

 一見すれば、Aさんはたまたま出会ったスタッフに介助されて展望台を歩いているのですが、スタッフはAさんと関わる中で、前もって経験したことのなかった視覚障害者への対応のポテンシャルを引き出されています。成長のきっかけが生まれたのです。そうなるとAさんの方が利他的であるようにも見えてきます。

 どっちがどっちを助けているかわからない状況は、単純に「与える」だけの一方通行の関係ではありません。自と他が出会う中で、相互に関係が調整され、利他的な場が成立し始める。お互いの潜在的な力が引き出されている状況です。そこに利他の毒を解毒する大事なポイントがあるのではないかと思います。

 

漏れる利他

 私は最近、とても興味を持っている言葉があります。それは「漏れる」という動詞。利他は「与える」という動詞で捉えがちですが、むしろ「漏れる」で捉えるのがいいのではないかと思います。

 小さな木を二本用意して土に植え、その木の間を幕で仕切ります。そして一方の木には黒い袋をします。普通に考えれば、袋を被せられた木は、光合成ができないので、養分を作れずに枯れてしまいます。でも、月日が経っても木は枯れませんでした。実は、袋を被せていない方の木の根から漏れ出した養分が、地中の幕の目を通過して、袋を被せた方の木に伝達されていたのです。

 光合成をしている元気な木は、自分の作った養分を隣の木に分け与えようという意思はありません。自分の行為の結果や宛先は考えられていないのです。利他を考える時、そのような「与える」という捉え方ではなく、「漏れ」出しているような、そんな仕組みからヒントをもらえないかなと思います。

 

まほうのだがしやチロル堂

 「あなたはカフェを経営しています。こだわりのコーヒーとジャズでくつろげる大人の空間。ところが朝出勤してみると、隣の敷地で建築工事が始まっています。ガガガガガガガガガガガガ。重機の音がうるさくて、店の雰囲気が台無し。さて、あなたならどうしますか?」

 生駒市にある「まほうのだがしやチロル堂」では、こうした状況に直面した時、隣の工事現場が見える窓に張り紙をしました。

―「はたらくおじさんをみよう!」

 張り紙をすると、お店の窓が水族館の水槽になったように、駄菓子屋にきた子供たちが、工事現場のおじさんたちを眺めて楽しむようになりました。

 次第に窓の境界を越えて、子供たちとおじさんたちが交流し、おじさんは子供たちを重機に乗せて遊んでくれるようにもなりました。チロル堂は対立が生じるような状況にも関わらず、双方に新しい関係を生み出すことに成功したのです。

 そんなチロル堂には、利他の毒を解毒するような試みがあります。お店に入るとガチャ(カプセルトイ)があるのですが、このガチャから出てくるカプセルには、お店で使える通貨「チロル札」が入っています。百円入れて、百円分のチロル札が出ることもあれば、三百円分のチロル札が出る時もあります。子供たちはお店に来ると、自分の持ってきた百円に魔法をかけて、チロル札を増やして買い物ができるのです。それでもお店の経営が可能なのは、喫茶店で食事した大人たちの代金の一部が駄菓子屋の運営に回されているからです。

 そもそも「チロル(チロる)」という言葉は店主の造語で、意味としては「寄付」なのだそうです。ただ寄付という言葉から離れたくて、あえてチロルという言葉を使っているとのこと。

 なぜ店主はそこまで寄付という言葉から離れようとしたのか。それは、こども食堂への違和感が理由にあったそうです。店主は、もし自分が小学生だったら、困っていたとしても、こども食堂には行けないといいます。そこに行くと、自分がかわいそうな人だと周囲からも見られそうだし、自分でもそう思ってしまいそうだからと仰います。農林水産省が実施した、こども食堂を運営している事業者向けアンケートでも、四十三パーセントの事業者が「本当に困っている人に来てもらえていない」と答えています。そこで、与えるという仕組みから離れつつも、届けることはできないかということを考えた結果、このような取り組みが生まれました。

 「与える」というと、贈与の宛先が指定されていて、与える側の主体性が強く、受ける側は受動的になり、支配的関係が生じてしまうことがあります。もちろんそれが必要な場面もあるとは思いますが、利他が生まれる場所というのは、むしろ「漏れる」的な場所で、宛先が未定で、偶然の要素がたくさんあり、受け取る側の主体性があります。逆に与える側の行為の結果がコントロールできない分、与える側にも受動性が生成され、新しい出会いや気づきのきっかけになることがあります。こうした見方で利他につついて考えてみると、新しい視点が得られるのではないかと思います。