第12回 愛宕薬師フォーラム平成25年5月27日 別院真福寺
「江戸テラマチ」~エンタメ、アイドル、デガイチョウ。江戸のお寺はオモシロイ!~
講師:歴史家 安藤 優一郎 先生
江戸の寺院
寺町というと京都や奈良を思い浮かべる方も多いと思いますが、実は江戸にも多くの寺院が存在していました。江戸の町は七割が大名、旗本、御家人等が所有する武家地だったわけですが、その残りのおよそ15%が幕府から拝領地した境内地でありました。当時、百万人が暮らす世界最大の都市江戸を舞台に、檀家を獲得し経営基盤を強化していった江戸の寺院、その活動は、大江戸の経済や文化を発展させる大きな原動力にもなっていました。本日はそうした寺院の経済活動を切り口として知られざる江戸寺町の姿を浮き彫りにしたいと思います。
境内は毎日が縁日
当時の境内には様々なお店が軒を連ねていましたが、その代表が「水茶屋」でした。甘いものや団子、お茶をだす茶屋は大変賑わいました。そこには給仕をする「茶屋娘」がいます。若くてかわいい娘は当然お客から人気が出るわけですが、その宣伝に一役買ったのが浮世絵師でした。絵師に見染められた茶屋娘の浮世絵は江戸の若い男性を夢中にさせます。現代でいうアイドルのプロマイドのようなものでしょうか。浮世絵が売れるにつれ噂が江戸中に広まり、人気茶屋娘に一目会おう客が店に足を運ぶといったように、“会えるアイドル”目当ての男たちで茶屋は繁盛したわけです。
若い男女が交流する場というのも江戸の境内の特徴でした。現代では公園でデートをする若者を見かけますが、江戸では境内がそういう場でした。若い男女が集うには娯楽が必要です。境内には自然と落語、講談、ものまね(生体模写)等の演芸小屋やめずらしい鳥獣を見せる見世物小屋が立ち並ぶようになっていきました。特に人気があったのは上方の芸人だったそうです。芸人達にとって境内の演芸小屋はいわば登竜門であったらしく、そこで売れっ子になることがメジャーデビューへの道だったようです。
また、日用雑貨やめずらしい嗜好品を売る店、お寺の規模によっては地方からの参拝者相手のみやげ店なども多く集まりました。いわゆるコンビニやショッピングセンター的な役割も担っていたのです。これは食料など行商で売られていた物以外をカバーするものでした。
このように、江戸の寺町は楽しいものを求める人々で日々賑わう場所だったのでした。
境内は江戸芸能の興行場所
一方、茶屋を賑わせていたのが男性であるならば、江戸芝居の代名詞「歌舞伎」の人気を支えていたのは女性でした。歌舞伎を演じるのは男性ですから、女性ファンがこぞって芝居小屋を訪れていたわけです。そこで演じる役者さんは、現代の人気タレントや芸能人以上の影響力をもっていました。その髪型や服装は江戸の流行をつくっていく、つまり歌舞伎役者は江戸のファッションリーダーでもあったわけです。
そんな江戸芸能のシンボル歌舞伎は、中村座・市村座・森田座といった江戸三座と呼ばれた常設の芝居小屋でもみられたのですが、江戸庶民には、その何十倍もあったといわれる「宮地芝居」のほうが圧倒的に人気でした。この宮地芝居というのは、幕府から期間限定の営業許可をもらい、芝居小屋を建てて行う歌舞伎のことで、その多くが境内地で行われたのです。ブランドの江戸三座は木戸銭が高い、そのうえ当時庶民の移動手段といえば「歩く」しかありませんでしたので、近くで安く楽しめる宮地芝居が人気を博したわけです。
現代でも映画や芝居を観れば、お茶や食事、買い物がつきものです。当時もそれは同じでした。歌舞伎のお客が、前述した水茶屋やみやげもの屋など、境内のさまざまな店にたくさんお金を落としていくわけで、芝居小屋は景気回復の起爆剤という役目も担っていました。
また、今日東京では両国の国技館と決まっていますが、江戸では相撲の興行場所としても境内が使われました。江戸っ子の相撲好きは相当なもので、例えば、大名お抱えのお相撲さん同士の一番は、大名同士の意地の張り合いにもなったわけで、庶民のみならず、武士や大名も巻き込んだ江戸中の住人を熱狂させるものでした。つまり、相撲を行う境内地は常に多くの人々で賑わったわけで、先程の宮地芝居同様、相撲の興行も大きな経済効果を上げていたようです。あちらこちらの境内地で行われたこの相撲でしたが、当時もやはり両国、回向院が有名でした。
このように江戸の寺町を眺めてみると、境内地は最新のエンターテイメントが集まる場所であり、多くの人で賑わう場所であり、雇用創出や大きな経済活動の場であったことがわかります。そして、拝領地であった境内を積極的に活用していた寺院の姿がみえてきます。
幕府の助成と寺院の経済活動
こうした境内地の活用ですが、当然、借りる側からの出店料や奉納金があったわけで、寺院はそれらを寺院の護持・運営に使用していました。ところが、ときに寺院は修繕や建て替えのように莫大なお金を必要とすることがあります。幕府からの拝借金や補助金という金品の給付もありましたが、それを利用できるのは、例えば増上寺や寛永寺といった将軍家の菩提寺や将軍家の葬儀を行う限られた寺院だけでした。当然、幕府の財政で江戸中の寺院の修繕費を賄うこともできません。そこで幕府は、寺院に対して年数と国を限定した寄付金集めを許可する「御免勧化」というお墨付きを与えたわけです。もちろん「勧化」自体はお寺が自由に行えたのですが、それが「幕府公認」となると、お金の徴収額が上がるわけで、この「御免勧化」は寺院に対する助成といえます。
もう一つ寺院が幕府から受ける助成のかたちに「富興行」があります。いわゆる「富突」と呼ばれる、現代でいうなら宝くじにあたるものです。江戸の昔も宝くじは庶民の夢です。大変人気がありました。この宝くじを主催していたのも実は寺院だったんです。寺院は幕府に申請し、許可が下りれば富札を発行して富突をすることができました。こうして庶民の射幸心を利用しながら、その上がりを修繕や建て替えの費用にあてたわけです。幕府は興行権を与えるという方法で自分の懐を痛めずに、寺院への改修善のための助成を行っていたのです。
さらに、積極的にお金を運用しようとする寺院は、信徒が寄付した浄財である「祠堂金」を利用し、金融業にも進出しました。「祠堂金」を元手に貸付を行い、貸付料をとっていました。
またこの頃、幕府も公金貸付というかたちで金融業に参入していましたが、お金が無い幕府はその元手の多くを寺院から出資させたようです。寺院にすれば、一般の貸付よりも低利なのだけれども、幕府の公的貸付は安全なわけですから、積極的に幕府にお金を貸し、利息を得ることで寺院のお金を増やす努力をしていたようです。
こうしたお金にまつわる寺院の活動からも、江戸の経済に影響力をもっていたことがわかります。
開帳というイベント
寺院の経済活動という点で最もインパクトがあったのが「開帳」というイベントでした。開帳には二種類あって、ご本尊さまがもともと祀られているお寺で行うのが居開帳で、ご本尊さまに遠くまで出張いただき、行った先の人々にご本尊さまとの結縁の機会を授けますというのが出開帳です。
もちろん出開帳も幕府の許可が必要で、申請しなければなりませんでした。申請にあたっては理由が必要です。何が開帳の目的だったかといえば、これもやはり寺院の修繕費を集めるためだったのです。ですから沢山の人にお参りしてもらいたい。それに加え、出開帳には、事前の宣伝や本尊さまの運搬に関わる人件費、申請のための幕府への根回しなど多くの費用がかかります。それらを回収できなければ、つまり成功させなければ意味がありません。それには場所選びが重要な鍵を握っていました。開帳するお寺を宿寺と呼んだのですが、当然集客力があるお寺が宿寺として選ばれます。江戸で人が集まるところといえば、隅田川周辺の人気観光スポット、浅草と深川と本所でした。多くの出開帳がこのエリアの寺社で行われました。また、時期や期間も大事でした。暑い夏や寒い冬では人出は見込めませんし、長い期間開催していても話題を呼びません、「期間限定」が江戸っ子の心をくすぐるわけです。ですから、期間は六十日、時期は三月~七月に集中しました。
江戸出開帳の四天王を挙げれば善光寺、京都嵯峨の清涼寺、身延山久遠寺、そして成田山新勝寺ですが、この中から成田山を例にお話しを進めたいと思います。
成田山の出開帳と市川団十郎
成田山が最初に出開帳を行ったのは、赤穂浪士が切腹した元禄十六年(二月四日)の直後でした。宿寺として選んだのが深川の永代寺。そのお隣の冨岡八幡神社の境内地に小屋を建ててご本尊さまを開帳するのですが、当時、成田山は江戸ではまだあまり知られていない存在でした。そこで出開帳のPRを買ったのが、江戸で絶大な人気を誇っていた初代市川団十郎でした。成田山の信者だった団十郎は、出開帳の時期に合わせて、自らが成田山のご本尊さまを演じる「成田不動」を公演するのです。当時、歌舞伎の舞台は一大メディアでした。団十郎が「成田不動」を演じ、その場で深川の出開帳を宣伝するわけです。当然歌舞伎を見に来ているお客(主に女性客)は、憧れの団十郎が演じたお不動さんの、その本物をお参りしようと深川を訪れるわけです。
もう一人、江戸で成田山を有名にしたのに徳川綱吉の母親、桂昌院の存在がありました。仏教を篤く信仰していた桂昌院は成田山の出開帳の噂を耳にし、ぜひお参りしたいとご本尊さまを江戸城に招くのです。入城したご本尊さまをお参りした桂昌院は、多額の奉納を包むわけです。大奥の権力者桂昌院のこの参拝の話はすぐに広まり、「桂昌院さまがお参りなさったのならば」と江戸セレブたちもこぞって深川を参拝することになります。
このようにして、成田山の名前は江戸中に知れ渡り、多くの参拝者を得た最初の出開帳は大成功を収めるのでした。以降、合計十回の出開帳を成田山は行うことになりますが、回を重ねるごとにその道中も華やかさを増していきます。
千住から深川へ向かう道中、江戸の成田山信者たちがご本尊さまの行列に次々と加わっていくわけです。深川に近づくにつれ人が増していくこの行列は、まさに大名行列のようでした。あまりにもその規模が大きくなると、町奉行から同心が出張し警備にあたったという記録も残っています。この大名行列のような道中がまさに江戸っ子の話題となり、さらに参拝者を増やしていったのでした。
こうした道中の行列に参加したのは、いってみれば江戸の成田山ファンクラブの人々でした。これが次第に「講」として組織されていき、今度は本家本元の成田山へお参りにいこうと、講中の参拝へと発展していきました。出開帳を行った深川周辺が経済的に潤ったのは当然として、江戸からの成田詣が盛んになるにつれて、成田山の門前町も活気づき、次第に整備されて行きました。
川崎大師と徳川家斉
成田山の出開帳から百年以上後のことになるのですが、川崎大師も江戸で出開帳を行っています。出開帳から川崎詣へと発展していったのは成田山と同じですが、川崎大師の場合、十一代将軍家斉が厄除けのため川崎大師を参拝する直前に川崎大師第三十四世貫首隆円僧正が急逝なさった出来事が、江戸で「将軍様の身代わりでお亡くなりになった」と話題となり、江戸からの参拝者が押し寄せたという経緯があります。
お寺を支える講の人々
その他、高尾講や大山講など、江戸にはさまざまな講が存在していましたが、こうした講が寺院の活動を支えていたのです。
ですから、もちろん寺院もこの講中の人々を大切にしました。いわゆるゴールド会員のような扱いをしたのです。精進料理をいただけるとか、特約の旅籠に宿泊できるとか、特別な護摩札をいただけたとか……、一般の参拝者と区別して、プレミア感を演出したわけです。高尾山も出開帳の際、貫首さまが自ら講中を挨拶して回る「講中廻り」を行って講の充実に努めたという記録も残っています。
あらためて考えてみれば、出開帳から成田詣への流れが今日の京成線に発展していくわけですし、江戸から大勢の参拝者を得た前述の二寺院が現在でも初詣の参拝者数では二番目と三番目なわけですから、出開帳と講中参拝が江戸の経済や文化に与えた影響が相当大きなものであったことは想像に難くありません。もちろん信仰無くして寺院の隆盛はあり得ません。ですが、本日はそれとは別の寺町の様子や経済活動を覗くことで、当時の寺院の姿をみてきました。
(構成/智山教化センター)