教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第13回 愛宕薬師フォーラム平成25年9月11日 別院真福寺

「幻想(ファンタジー)としての大乗」―利他行による成仏への道―

講師:大正大学副学長  廣澤 隆之 先生

はじめに

大乗仏教では仏になるために、「利他行」を殊のほか強調し、菩薩行を実践します。では、「利他行」とは一体何なのでしょうか。東日本大震災以降叫ばれている社会貢献は、果たして仏教でいうところの利他行の精神に叶っているのでしょうか。私は少なからず疑問があります。
さらにいつもお唱えしている「普回向」の精神は、永遠に実現不可能なのではないかと考えます。しかし、実現不可能なことを祈り続けることも必要なのではないだろうかと考えます。また、利他行は自己犠牲を払いながら行なってはじめて利他行といえるのではないかと思いますから、今の僧侶の現状を見ると、これでよいのだろうかと疑問を感じているところがあります。
ところで、サンスクリット語の原始経典では、仏教とは〝仏の教え〟とはありますが〝仏になるための教え〟というのは出てきません。それが なぜか大乗仏教では〟仏になるための教え〟が組み込まれているのです。このあたりは大乗仏教を考える上で重要な意味を含んでいるのではないかと考えます。これらのことを踏まえて次に話を進めてゆきたいと思います。

一、 大乗仏教起源論にちなんで

大乗仏教は何をもって起源とするのでしょうか。日本では故平川彰元東大教授の在家信者と出家者が共同で仏塔を作り、そこからを大乗仏教の起源とする平川説が定説となっていましたが、今日、学会ではそれを覆そうという動きがあります。しかし、大乗仏教がいつから始まったかを求めること自体が仏教学の限界を示しているのではないかと考えます。
そもそも時間軸を追って行く中でのみ起源を求めることは可能なのでしょうか。このように十八世紀から十九世紀に力を持った、客観的なテキスト文献のみにおいて真実を見つけようとする考え方は果たして万能なのでしょうか。
歴史主義以前は、神話などで、人が想像力を働かせて真実を見出していました。そのことからも起源論には二つあって、時間的に古いものを起源とするものと、人間の思想的根源に基づいた起源があると思います。

二、幻想(ファンタジー)としてのジャータカ

私は仏教の起源をお釈迦さまに求めるのは間違いであると思っています。なぜなら仏教は信仰している私たちがつくったものだからです。つまり「信」に基づきお釈迦さまを解釈し、その解釈に基づいて実践的に関与して行くのが仏教の基本的構造なのです。
お釈迦さまの解釈についていえば、お釈迦さまが生きているうちは、教えはお釈迦さまに直接聞けば良かったのですが、入滅後は残された教えに頼らざるを得なくなります。教えが経典になると、その経典に対して新たな解釈が生まれ、お釈迦さまをどう見つめるかという問題が生まれてきます。このような中で、お釈迦さま入滅後にジャータカや仏伝文学が生まれてくるのです。
ジャータカに書かれてあるように、お釈迦さまは無限の時間、輪廻を繰り返し、修行を積み、利他行を重ねたからこそ、王子としてこの世に生まれ、悟れたのであり、この無限の時間、輪廻を繰り返すことこそが大乗であり、ファンタジーの世界であろうと思います。そして、その精神が利他行の最たるものではないだろうかと私は考えます。
通常ファンタジーは空想と訳されますが、インド的な壮大な考え方は空想と簡単にいえるものではないように思われます。むしろ幻想と訳した方がピッタリとくるのではないでしょうか。ジャータカというファンタジーを、自分自身の仏道修行として具現化するのが大乗仏教徒であり、幻想(ファンタジー)にリアリティーを持たせるのが大乗仏教なのです。

三、幻想(ファンタジー)としての慈悲と利他行

大乗では「普回向」の精神、つまりすべての衆生に功徳を及ぼすというような幻想を抱きます。こういう幻想をあらわしている最たるものが『法華経』ではないでしょうか。
例えば、子供が遊び半分で土で仏像を作ったり、地面に木で絵を書くと仏になれるとか、小さな祠の仏像に気持ちも込めないでただ拝んでもちゃんと仏になれるとか、真面目に修行を積んでいる人から見ると、ふざけているとしか思えないような記述が多々あります。これで果たして仏教といえるのでしょうか。こういうところに大乗は、私からいわせると正当な仏教(小乗)に対してマイナーな存在であるがゆえのルサンチマン(僻み、嫉み)を感じるのです。
さらに『法華経』では盛んに仏塔を作れというのですが、正当な仏教側からの、「それは仏塔ではない、舎利が入っていないではないか」という指摘に対して、法華経側からの返答は、「舎利がないのは当たり前、仏塔全体が舎利なのだから」と答えます。つまりここでは〝全身舎利〟という考え方を主張するのですが、これはただ単に舎利を分けてもらえなかったからだと私は思うのです。そういうことをさらりという『法華経』を私は尊敬しているのです。
そして、その頃からインドでは、大乗非仏説ということが盛んにいわれるようになりました。それに対し、大乗側からは自分たちこそが正当であるということを訴え、そこから様々な展開をしていくことになります。
そういった中で、大乗は徹底的にお釈迦さまの解釈を幻想(ファンタジー)の世界にのせて、人々の信仰を集めていったのではないかと思います。

四、幻想(ファンタジー)と大乗教典

『法華経』の「序品」には、霊(りょう)鷲山(じゅせん)でお釈迦さまが八万四千の信者を前に説法をする記述があります。霊鷲山に行った方ならわかると思いますが、あそこに八万何千人はとても入りません。
しかし『法華経』では、お釈迦さまがそこで颯爽と説法をする姿が描かれています。初期経典の『阿含経』などでは、修行中心の記載でしたが、それが大乗教典の頃になると、明らかにストーリー性が重視され、きらびやかでファンタジックにイメージに訴え、そして想像力を掻き立てる作りに変化しています。
具体例をいうと、『八千頌般若経』の「常啼(じょうたい)菩薩品」では、ある街で真実を求める菩薩がうつらうつらしていると目の前に突然仏が現れ、そして消えてしまった。仏はどこへ消えたのかと常啼菩薩に尋ねると、常啼菩薩はこう答えます。「如来が何処かへ行くなんてことはない、如来は不来不去である。何故なら無限の大きさに等しい如来は虚空に等しいものだから」と教えられます。
『華厳経』の「入法界品」では、善財童子が真実を求めて仏教に限らずバラモンや商人など五十三人のもとへ次々と訪ねて旅していく話があります。ある時、遊女のところへ行き話を聞くと「私のところへ来た男は欲望がなくなってしまう」といいます。また「欲望が消えなかった人も私の手に触れただけで忽ちに欲望がなくなってしまう」という話があります。こんなこと現実にはありえない話です。しかし、そのありえない話(ファンタジー)の中に真実を見ようとしていたのではないでしょうか。

五、三劫成仏と即身成仏

さて、いろいろと見てきましたが、大乗仏教の成仏論はあくまで三劫成仏が原則です。三劫に亘って徹底的な自己犠牲による利他行が必要なのです。
三劫は永遠に等しいものです。ですから三劫成仏は、成仏という結果ではなく、成仏に向かって修行していくことが重要であり、成仏するというのは現実的には無理なのです。しかし、永遠に実現しないファンタジーをリアルに生きていくのが、大乗仏教の真髄なのではないでしょうか。
それでは菩薩は他者的世界(社会生活)をどのように生きればよいのでしょうか。肩を寄せ合って仲良くしているだけでは大乗は成り立たちません。つまり、清貧と孤独に徹底する時にはじめて、すべての人に功徳が及ぶという幻想を生きることができるということではないでしょうか。
ところが真言密教になると、幻想を身体の中に具現化するファンタジーを生きようとするので、大乗仏教はここで大きな転換点をむかえることになります。
こういったことを考えていく中で、私たち真言宗僧侶が考えなければならないのは、即身成仏は最高のもので三劫成仏はレベルが低いといっているが果してそうなのか? ということです。私たちはお大師さまの理論を今一度考え直す必要があると思います。真言密教における利他行とは一体何なのかということを。
私の中では〝祈りの中にすべてを投げ込む〟ことが、これにあたるのではないだろうかと考えます。宗教である以上は、絶対なるものへの祈りが我々の支えとなるのであり、三密加持は常に仏から伝わった力を私たちがどうにかしようとしているのです。
鎌倉仏教は常に他力をいいますが、真言宗は自力と他力が全体的に相互し合うものと考えたらよいと私は思います。それは『大日経』でいうところの「以我功徳力 如来加持力 及以法界力」三つの力の祈りであると私は考えます。
以上、私の考えるところの一端をお示しさせていただきました。どうも有難うございました。

(構成/智山教化センター)