教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第42回 愛宕薬師フォーラム令和5年2月27日 別院真福寺

「世界の宗教とお大師さまの十住心思想」

講師:大正大学名誉教授 吉田宏晢先生

はじめに

 現在の世界の宗教地図を見ると、キリスト教がおよそ三十三%を占めています。次に多いのが、イスラム教で、次いでヒンドゥー教です。この三つの宗教が大きな割合を占め、仏教は四億人くらいです。お大師さまの時代、まだキリスト教やイスラム教というのはあまり知られておりませんでした。そうなると、世界の宗教に対して、お大師さまの考え方が欠けているのかと思いますが、これは明らかにお大師さまの十住心思想に入っていると申し上げたいと思います。

 

世界の宗教

 世界には色々な宗教がありますが、各民族や種族に信仰されている民族宗教と、民族に偏らないで世界に信仰される普遍宗教とに分けられます。民族宗教は、ヒンドゥー教や儒教、道教、日本神道などで、それに対して普遍宗教は、仏教、キリスト教、イスラム教が含まれます。

 死後どうなるかという点で宗教をみると、そのひとつに砂漠地帯の宗教があります。砂漠地帯では遺体がミイラになり残りますから、そのまま後で復活すると考える。復活するというのは、肉体が再び生き返ることです。具体的にはキリスト教やイスラム教があたります。それに対してアジアの湿気が多い地帯の宗教では遺体がなくなってしまうので、別の形で生まれてくると考えます。人間がそのまま人間で生まれるとは限りません。生き物が生まれてくるときには、男女の交合で生まれてくるわけですから、両親という縁と、自分という因の、その因と縁が結合して生まれてきます。これは復活ではなく再生です。復活の場合は、永遠に神の下で生きるわけですけれども、再生の場合は、また死ぬということですから、また別の身体をもって生まれてくる。これを繰り返すことが輪廻転生です。

 

輪廻転生の超越

 仏教は輪廻転生という考え方のなかで成立しています。お釈迦さまが釈迦族の王子としてルンビニーに生まれたころ、ヴェーダの宗教というものがありました。輪廻転生ではなにが輪廻するかというと、自己であるアートマンです。アートマンは常一主宰であり、それが違った形で生まれるのが輪廻転生です。輪廻転生を否定した教えが六師外道であり、輪廻転生の否定とは、アートマンの否定に他なりません。そういうなかで仏教が生まれました。

 

秘密曼荼羅十住心論

 お大師さまが『秘密曼荼羅十住心論』を書かれたのは、淳和天皇の詔勅によります。日本には諸宗派があったため、それぞれの宗派がどのように違い、どのようにすばらしいのか、論じるようにという詔勅がありました。それに応じてお大師さまが『十住心論』を書いたのです。他の宗派では自分の宗派がこうだと書きましたが、お大師さまは南都六宗や儒教や道教全部をひっくるめて『十住心論』を書きました。そういう意味では当時の最高の考え方を示したのです。

 

世界の宗教と世間の住心

 お大師さまは『大日経』の住心品を中心にして『十住心論』を書いています。その最初の第一住心は食と性にのみ関心のある異生羝羊心です。
 儒教が第二住心にあたり、道徳の立場です。仁義礼智信を五常といい、それを守るのが儒教です。儒教では、死後のことについてどう考えるかというと、生きているのでさえ大変なのに、どうして死を語れるか、といっています。道徳と宗教がどう違うかというと、道徳はこの世のことしか考えていない。だから、善をしなければならない、という考え方です。これに対して、宗教は、この世でよいことをすれば来世は天国に生まれるというように、来世のことまで考えています。
 続いて道教は第三住心にあたります。第三住心は嬰童無畏心といい、赤子が母親に抱かれて安心していられるような境地のことで、天に昇って、一切の苦しみのない世界で安心していられる境地をいいます。道教では羽化登仙といって、蛹が蝶となるように仙人のもとへ行く。仙人になるということは、天に昇るようなものですから、第三住心は道教を指しているといえます。
 道徳も宗教もない原始的な人間のあり方である第一住心。善心がおこり、道徳がある第二住心。昇天する教えを信じる第三住心。この三つの住心とは、みな世間の住心です。世間とは、世は時間、間は空間を指します。『大日経』やお大師さまの『十住心論』では、キリスト教やイスラム教などを含む生天教(天に生まれる宗教)を第三住心と考えました。
 それを超えた出世間心というのが仏教です。世間というのは三界六道であり、三界とは欲界、色界、無色界という三つの世界で、六道は地獄、餓鬼、畜生、人、天、修羅という六つです。道というのは、移り住んでいくという意味ですから、人間として生まれても、来世は別の人間として生まれたり、場合によっては地獄に落ちたりします。天界は、キリスト教系ではそこに永遠にいると考えましたが、インド人は生まれたら必ず死ぬと考えました。そのため、天に生まれても長い寿命があり、また死にます。天というものも一つの過程に過ぎません。大事なのは三界六道を越える。それが出世間です。その越えた境地を大安楽、大自在の境地といいます。真言宗の読誦経典である『理趣経』に大安楽、大自在という言葉がありますが、生老病死等の四苦八苦(苦は思いどおりにならないという意味)を乗り越えるから大安楽、大自在というのです。これが仏教の根本の境地です。世界の宗教は、第一、第二、第三の世間の三つのあり方の第三住心の立場ですが、それを越えたところに仏教の出世間の世界があります。

 

出世間の世界

 出世間の段階に至る第一の段階が、第四住心です。それが唯蘊無我心で、声聞乗をいいます。唯蘊無我とは、五蘊だけがあってアートマンという実態がない、ということを理解することです。そのときに出世間心が生じる。我とは、常一主宰なので、そういった我はないと悟る心を意味します。
 その次の第五住心が抜業因種心で、縁覚乗に相当します。小乗仏教のなかに声聞、縁覚という二つの乗り物があります。縁とは十二因縁で、それを悟って悟りの境地に至る。十二因縁とは、なぜ生老病死が起こるか、その原因を十二の系列にあげて説いたものです。その最後は死であり、たどっていくと無明に行き当たります。無明がなくなれば、生老病死の苦がなくなるというのが十二因縁観です。行為がおこる根本は業です。そしてその根本が阿頼耶識にあります。

 

大乗の段階

 次いで法相宗が第六住心にあたります。法相宗では三劫成仏を説きますが、三大阿僧祇という無限の時間をかけて成仏をするという発想です。法相宗の思想では心を八つの識に分けます。眼耳鼻舌身意の六識に、自我意識である末那識と、無意識である阿頼耶識を加え八識です。阿頼耶識は知ることのできない不可知の知ですが、阿頼耶識を転換すると大円鏡智となります。そして、末那識を転換して平等性智、意識を妙観察智、前五識を転換して成所作智というように、八識を転換して四つの智慧を得るのが法相宗です。真言密教では五智を説きますが、阿頼耶識の上に九識があり、さらに十識である無際智を転換して法界体性智とします。これが大日如来の智慧です。唯識では四智を説いて、密教では五智を説き、また即身成仏を説く点で、法相宗は第六住心となります。
 続いての第七住心では三論宗が相当します。三論宗で一番大事なのは縁起です。要するにあらゆる存在が縁に依り、他に依ってあるということで、他に依ってあるものはそれ自体がないということです。つまり無自性であり、それを空といいます。一切のものは縁に依ってあるから自性がありません。自性がないことを空といいます。空というのはなにもないというのではく、縁によってあるということです。それがみんな理解できないで、一切のものが、それ自体があると考えてしまう。無自性だから当然、諸行無常となります。諸行無常というのは縁によってあるのですから、それが理解できないで「諸行無常、ああ悲しいな」という風に思うのは違うでしょう。心を水に喩えると、水の本性というのは変わりませんが、無明の波によってかきまわされると水面が乱れます。波が静まれば鏡のようになり、森羅万象が歴然として現れる。これが法界体性智というふうに考えます。このような水波の比喩で心の不生を悟るのが覚心不生心であり、第七住心です。
 続く第八、第九住心が実大乗である天台宗と華厳宗です。天台宗は法華経と中論に依拠しており、三論宗の空の理論を用いました。空仮中、三諦円融が天台宗です。
 華厳宗では四種法界を説きます。その四種の一つが事法界で、普通の物事がそのままあります。それが平等だというのが理法界です。事と理が一緒になったのが事理無礙法界で、最後は事事無礙法界です。一切のものは縁起によって無碍というもので、事事無礙法界が最高の境地と認識されます。お大師さまの『即身成仏義』に「重々帝網なるを即身と名付く」とありますが、重々帝網というのは、事事無礙法界の例えです。そういう意味では華厳宗というのは真言宗の前の段階になります。しかし、天台でも華厳でも、大日如来の世界を見ていない。宝の世界に入っていない。

 

宝の世界 秘密荘厳心

 真言密教というのは、世界を曼荼羅として、あるいは真言として、印契として説いているから、三密が一体化する三密瑜伽によって仏の世界がそのままこの身に現れる。その意味では悟りの世界をそのまま印契、真言、曼荼羅で説かれているから、それを瑜伽すれば即身成仏となります。三論でも、天台、華厳でもそのようなことはいっていません。だからそこには真言密教の特徴がある。曼荼羅世界というのは、一切智智の世界です。一切智智の世界というのは、ちゃんと教義を勉強しないとわからない。ただ事相をやっていればいいというのではなく、しかし教相だけでももちろん駄目です。そういった比較思想を越えたところに、真言密教の、『弁顕密二教論』にある浅略釈と深秘釈といった境地が説かれている。理解のためには十住心論だけではなく、『即身成仏義』や『弁顕密二教論』なども含めて理解していくことが大事です。
 全部漢文ですから読むのは大変ですよ。『大日経』からはじまって、『大日経疏』も厚いです。しかし、教相の理解のなかに、実践としての三密行があると私は思います。『理趣経』の百字の偈に「大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利」とある境地です。大師教学を理解するためにも、このような原典にあたることはとても大切なことです。