教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第19回 愛宕薬師フォーラム平成27年2月4日 別院真福寺

「ナラティブ - 人生の物語を語るということ」

講師:日本赤十字看護大学 名誉教授・健和会臨床看護学研究所長  川島 みどり 先生

はじめに
 誰でも自分の生きてきた過程を振り返るとき、その時々のエピソードが頭に浮かぶことでしょう。「あの時、誰と誰がいてこんなことがあった」という思い出です。こうした思い出が積み重なってナラティブはつくられます。ですからナラティブはそれぞれの生きざまや人生観を反映しており、百人百様で無数にあるわけです。私は八十四歳ですが、その内の六十四年における看護の経験をとおしてナラティブを語ってまいりたいと思います。
 
看護の理念
看護というのは、人間の最も基本的な営みの一つです。いのちを維持、継続する日常的ケア、例えば皆さんが朝起きてトイレに行ったり、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり……日常で誰もが行っているこうしたことに対するケアが看護であり、医療制度や技術が変化した今も、その基本的理念は変わりません。
看護は、お釈迦さまがおっしゃった「生老病死」という四つの人生の大きな出来事のいずれの場合にも直接関わります。私はどんなに医学が進歩しても、人間がこの世に生まれてきた以上、誰もが生まれて良かったと、死の瞬間までその生を全うできるように支援するのが看護だと思っております。ですから、基本の理念は生命の積極的肯定であり、生命の無限の可能性を信じ、人間の尊厳への畏敬の念を持ち続けるということであります。
 
物語(ナラティブ)の働き
 私の看護師としての六十四年の内、五十数年間は結婚して、母として妻として主婦としての生活と重なっております。私自身は二人子どもがおりますが、下の子どもがまだ小さな頃、なかなかおしゃべりをせず、不安に思っておりました。
 そんなある日、その子を抱っこして二階のベランダから隣の庭を眺めていました。すると子どもが「アナ、アナ、アナ!アナいっぱいあった」というので、「アナ?穴がどこに?」と思って見たら、その庭にはお花がいっぱい咲いていたのです。花のことを「アナ」といったのです。それが彼の初めての言葉でした。私は「そうね、お花がいっぱいね。きれいね」といいました。きれいなお花を見ながら、はじめて一方通行ではない対話をして、経験の共有を確かめ合ったのです。これが親子の最初のナラティブです。
子どもの「アナ(花)」というナラティブが親子をつなぐ架け橋となってくれたのです。「語ることは、語り手と聴く手をつなぐ行為である」これは医師のハワード・ブロディの言葉ですが、このように物語(ナラティブ)は橋を架ける働きを持つのです。
 
看護の力
 次に小児病棟にいた新人時代のお話しをしたいと思います。そのころ出会った重い病を抱えた幼い彼らに教えてもらった看護の喜びが、その後の私の看護観に息づいております。
― トシエちゃんの場合 ―
 私が看護学校を卒業して九日目に出会ったのは脊髄悪性腫瘍の少女、トシエちゃんでした。
 地方の病院から転院してきたトシエちゃんは、重病で末期状態でした。背中にはキャベツのような大きさの腫瘍があり、しわだらけの顔はまるで老婆のようでした。「痛いよう」「だるいよう」と、か細い声でうめく彼女に対して、当時まだ新人だった私は、だるい足をさすることしかできませんでした。ところが、私の手に触れた少女の足の表面は魚のうろこを逆撫でするかのような感じに加えて、何ともいえない臭いが鼻をついたのです。臭いは手術を求めて病院を転々としている間、お風呂に入れず、身体も拭いてもらったこともない少女からのものでした。
 私は早速、全身清拭(せいしき)をしようとしたのですが、少女の脈は大変に悪い脈でしたので、このまま清拭を強行したら症状が悪化することは、新人の私にも予測できました。全身清拭は中止し、足だけを洗うことにしました。両足を洗い終えると両手いっぱいの垢が掬い取れ、真っ白な足首が見えてきました。こうして、毎日注意深く少しずつ、身体の部分を分けて一週間かけて全身をきれいにしました。
まるで別人のようになったトシエちゃんが、ほっぺをほんのりピンクに染めてにっこりしながら私に向かっていいました。「看護婦さん、おなかが空いた」と。私は嬉しさで飛び跳ねるような気持ちで配膳室に走り、卵粥を作って彼女のところに行きました。彼女はスプーンで差し出す卵粥を「美味しい」といって目を閉じて飲み込みました。当時はまだ点滴のない時代で、それまでの彼女の食事はビタミン剤の入ったブドウ糖二十ミリリットルだけでした。ですから彼女は衰弱してやせ細って、もちろん食欲もありませんでした。その彼女がお粥を食べてくれたのです。さらに驚いたことに、数えるのも難しいほど弱かった脈が、普通の強さに戻りリズミカルに打っているのです。
トシエちゃんは結局のところ手術はできず、入院から三か月後に亡くなってしまうのですが、あの時、もしそのままにしていたらトシエちゃんの生命は数日で尽きていたことでしょう。本当に小さな小さないのちだったのです。その時のトシエちゃんは、今でいうターミナル期(病気が治る可能性がなく、数週間から半年程度で死を迎えるだろうと予想される時期)の状態でした。
 その後の医学的な研究ではっきりしたことは、身体をきれいに拭くことで新陳代謝が良くなることは勿論、「気持ちいい」と感じてリラックスすると、人間の自律神経の内の副交感神経が優位になります。すると、心臓を含むすべての臓器、呼吸はゆったりになるけれども唯一、消化器だけは働くようになるのです。ですからトシエちゃんは、清拭によって胃の働きが活発になり、胃液や唾液が分泌されて「看護婦さん、おなかが空いた」といってくれたのでしょう。
また最近分かったのですが、副交感神経が優位になると、ナチュラルキラー細胞が活性化され、自然治癒力が刺激されます。看護とは、すべて副交感神経を優位にする行為です。優しく触れたり、言葉によってその人の生きる力を助けるものなのです。

― 友人 富沢みえの終末から ―
 生きる力を助けるものは、人によってさまざまです。次に、「生きる」うえで、口から食べることがいかに尊いことかを身をもって教えてくれた、友人、富沢みえさんの生と死のナラティブをお話したいと思います。
彼女は胃癌でした。ドクターから、来月までもたないだろうといわれていましたが、八カ月間がんばりました。
私が見舞いに行くと、彼女はよく「人間って口から食べなければ駄目よ。だってねぇ、力が出ないもの」といっていました。点滴は命を長らえるかもしれないけども、力がでないというのです。
ある日、彼女から「お寿司を買って来て」と頼まれました。そのころはすでに骸骨のように痩せてしまった彼女に、私は思わず「お寿司なんか食べられっこないでしょ」といいましたが、彼女は「いいから、特上の握りをワサビ抜きで買ってきて」というので、仕方なしにお寿司を買って持っていきました。すると彼女はすしネタを外して、「ご飯だけを取り分けて」というのでそうしてあげると、ご飯を一粒口に入れて、しばらく目を閉じたままなのです。十五分ほどして彼女は目を開けて「不思議。全然喉を通らないと思っていたの。だけど口の中に入れて黙って心の中でお念仏を唱えているとなくなるのよ」といいました。
彼女のいうお念仏とは「この一粒は夫のため」「その次の一粒は子どものため」というもので、そうやっていると口の中が空っぽになるのだそうです。お寿司のお米を一粒ずつ食べたらどれくらいの時間がかかるか皆さんは想像できますか?私は午後の二時から七時まで付き合いましたが、お寿司の形が変わったように感じませんでした。しかしお寿司を一粒一粒噛みしめる彼女の横顔から、鬼気迫るものを感じました。
その夜、彼女は呼吸停止に至り、三日半後に亡くなりました。
その後、彼女のご主人が、自身の経験を書いた本の中で次のようにいっています。
「妻はレスピレーター(人為的に呼吸を行わせる装置)によって三日半おまけの生を生きた。だけれど、病人、特に重症の患者の食欲は気まぐれで我儘である。本当はお粥なのに、急にロールパンが食べたいという、オクラを刻んで納豆をまぶしてという。しかし、今の近代的な病院では何一つ叶えてもらえなかった。それができたのは、お願いして付き添った妹が、それとなく姉が食べたいであろうものを用意しておいたからで、いわれたらそれをサッと出した。決してたくさんは食べない。ほんのちょっと舐めると気が済む。この病人の我儘食や気まぐれ食に対処できた素人の看護による妻の延命は、週単位にのぼる。これを私は看護延命と呼びたい」
彼女の病床からも、彼女のご主人の言葉からも、食べるという欲求は最後まであり、最後まで口から食べる、噛んで食べるということがいかに重要か分かると思います。
 
被災地でのナラティブ
 東日本大震災から四年が経とうとしています。復興はなかなか進みません。心のケアと一口にいいますが、そう簡単なものではないことを実感しております。とにかく、聴くことをとおして共有、共感してともに物語を作っていこうとしていますが、別離、悲嘆の様相は決して一様ではありません。そして共感以前の現実問題として、未災と被災の溝と隔たりがあります。まずは言葉(方言)を理解するところからはじめなければなりませんでした。
 そして私たちは二年三年先のことを考えたケアを目指し、宮城県多賀城市の仮設住宅で、看護師のケアを媒介にして隣人をつなぐ、お隣さんづくりをしようと考え、「なでしこ茶論(サロン)」をはじめました。このサロンを四年間続けてきた中で一番良かったのは、料理の講習会でした。 ある日の長ネギのスープの講習会のとき、スープの香りに導かれて、ある方が「そういえば、子どもの頃にばあちゃんが飲ませてくれた葱汁の味。被災後にはじめて子どもの頃の思い出が頭に浮かんだよ」とおっしゃりました。この四年近く、苦しいこと悲しいことしか思い出さなかったのに、スープの味が幼い頃の実家の毎日を思い出させてくれたというのです。つられて、他の参加者のそれぞれが、そういえば……と子ども時代の思い出話をしはじめたのです。これこそがナラティブです。
 
認知症が和らぐナラティブ
 私の研究所の関連病院では、訪問看護をしています。そこで毎年春に荒川の土手で行われる、「川を観る会」でのナラティブをお話しましょう。
 ある年の「川を観る会」に、約四十人の在宅の寝たきりのお年寄りたちを、車椅子やストレッチャーで連れて行きました。そこには認知症の大変に重い寝たきりの方が参加していました。ゲームの時間になり、一人ずつ自己紹介をしていただくことになりました。マイクを順番に回していきましたが、そのお年寄りは喋れないだろうと思い、飛ばしてしまったのです。するとその方にギロッと睨まれてしまいました。「ごめんなさい」といってマイクを渡すと、その方はマイクをグッと握って「私は○○と申します。現在体調を崩して、あいにく寝たきりになっております」と流暢に話しはじめたのです。はじめて喋っている姿をみましたのでみな本当に驚きました。しかし、その後はまたすっかり元に戻ってしまいました。
後で分かったことは、そのお年寄りは、都議会選挙も区議会選挙も衆議院選挙も参議院選挙もすべて立候補して落ちる、という経歴の人だったのです。大勢の人の前でマイクを持ったことで、ご自身が一番華やかで嬉しい、立候補や選挙演説を思い出し、輝いたのでしょう。
このように、誰にでもある思い出、人々を取り囲むすべてのもの、家、町、道、路地裏、空、雲、風、山、川、海、樹、花、匂い、音、光、気配、これらが混じり合ったさまざまな風景、心の動きをとおして見えてくるもの、これらには個人の歴史や生きざまが刻まれています。これら風景の記憶をキーワードにして、その方の認知症の症状を緩和し改善することも可能なのです。また、楽しかった出来事、生き甲斐のあった仕事、大好物、好きな人、音楽、その人にとって楽しかった記憶を見つけて、それをキーワードにして働きかけていくことも有効です。
 重要なのは人生の場と時の共有です。想像力を豊かに、高齢者(夫、妻、親)の気持ちに近づき寄り添い、その方がどのように生きてきたか、どのように生きているか、その人らしい生き方を尊重しつつ共有していくことです。
 
聴き、そして触れる
 大江健三郎さんは「二百年の子供」という本の中で、話を聞く方法は「人それぞれ」ということをいっています。お話を聴くときは、自分の頭の中でイメージしながら物語として聴く場合と絵としてとらえる場合があります。私の場合はビデオをまわすように映像化して記憶し、後で巻き戻しできるようにしています。しかし、私は看護師ですから、ただ聴くだけ、語るだけではなく、手を使わなければダメなのです。触れるということです。声と思いを両方聴き、手の有用性を認識しながら触れるということはとても重要です。そのことによって相手の方のコミュニケーションチャンネルを開放することができます。そして、人間としての器を磨き、そばにいるだけでいいからと、いわれる人になりなさいということを若いナースたちにいっています。

(構成/智山教化センター)