平成24年10月5日 第11回教団付置研究所懇話会・年次大会報告
常勤講師 山本 隆信
去る平成24年10月5日に第11回教団付置研究所懇話会・年次大会が滋賀の天台宗宗務庁にて開催された。
教団付置研究所懇話会は、会員研究所が19、オブザーバー研究所が8の計27研究所から構成される。伝統宗教、新宗教の教団を問わず、種々の現代的諸問題に対してどのように向き合っているか、それぞれの立場を尊重しながら情報を交換し、相互理解を深めることを目的としている。11回目となった今大会には、2つのオブザーバー研究所(南山宗教文化研究所、陽光文明研究所)を除く、25の研究所から99名が出席した。 大会は、阿純孝・天台宗務総長の挨拶に始まり、天台宗総合研究センター・勝野隆広主任の司会のもとに進行した。テーマは「震災と宗教」であり、4研究所から発表があった。
発表(一)
NCC宗教研究所の勝村弘也・元神戸松蔭女子学院大学教授より「破局の中で生きる」と題して行なわれた。氏は、1995年の阪神淡路大震災の際に、もっとも被害の大きい地域のひとつである兵庫県西宮市で被災した。被災後、氏は「生き残ってしまった」という感覚を抱くが、その感覚は東日本大震災の被災者の多くがもっているものであって、被災者はいわば「破局の中で生きている」のである。災害から復興する時間は、人によって差があって、1週間で震災前とほとんど同じ生活に戻る人もいれば、10年たっても元の生活を取り戻せない人々、さらには永久に復興不可能な人がいる。氏は大学でボランティアチームを立ち上げ、地道な社会調査を行いながら「被災地10年を検証する会」に参画している。氏は阪神淡路大震災の検証を通して「宗教者として死者を弔う」という作業を本当にしてきたのだろうか、という反省のもと、破局の中で生きざるを得ない人への共感と「支縁」(つながりを支えること)を訴えた。
発表(二)
武田未来雄・真宗大谷派教学研究所所員が「大震災と宗教——真宗大谷派の活動とそこから問われていること―」と題して、真宗大谷派の被災者支援活動と原発問題に対する活動について報告を行なった。真宗大谷派は、震災2日後で、仙台教務所に「現地災害救援本部」を立ち上げ、1ヶ月後には「現地復興支援センター」を開設し、瓦礫の片づけ、被災寺院の整備、炊き出しボランティア、紙芝居、足湯、腕輪念珠づくり、などの継続的な支援活動を行なってきた。原発問題に関しては、すでに2002年に『真宗ブックレット№9 いのちを奪う原発』を出版し、早い段階から原発に警鐘を鳴らしてきている。こうした根強い反原発活動を下地として、真宗大谷派は政府へ声明文を出すにいたっている(「原子力に依存しない社会の実現に向けて、内閣総理大臣への要望書」「原子力発電所の再稼働に対する真宗大谷派の見解―すべての原子力発電所の運転停止と廃炉を求めます―」「大飯原子力発電所再稼働に関する声明」)。復興支援という実践活動に対して教学的見地からも考察をすすめ、親鸞の聖教における「われら」という呼びかけを大切にし、すべての凡夫を「われら」と呼ぶ、親鸞の姿勢を立脚点として、被災者とともに歩む決意をかためて、今後も活動を継続していくべきことを述べた。
発表(三)
宗教情報センターの川村裕之・真如苑事務局が「祈りと社会支援で大震災と向き合って」と題して行なった。真如苑救援ボランティア(SeRV「サーブ」)は、これまで海外3カ国、70カ所に出動している。震災では、通常のボランティアとともに接心修行(傾聴ボランティア)や忌日法会を定期的に行なっていることを報告していた。
発表(四)
日蓮宗現代宗教研究所の高佐宣長・主任が「震災天罰論をめぐって―日蓮宗の立場から―」と題して行なった。いわゆる「天罰論」が問題となったのは、石原慎太郎都知事が震災直後の3月14日に、震災を天罰だと発言したことに端を発する。さらに末木文美士博士が「中外日報」(平成23年4月26日号)紙上で、日蓮の『立正安国論』を挙げつつ、大震災は人智を超えた大きな力の発動であり「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければならないと主張し、自身のブログ(bunmaoのブログ)上でもかなり熱を帯びた議論を闘わせている。高佐氏は、こうした天罰論をめぐる近時の議論を整理しながら、とりわけ日蓮が主張した天罰論を現代的な視点から検証した。日蓮の天罰論とは、『法華経』という聖教を軽視したことによる災罰と、法華経の行者である日蓮を排除したことによる災罰によって、正嘉の大地震、文永の大彗星、元寇などの災難が生じたと主張したものである。氏は『法華経』の経証や日蓮の諸著作からの引用を丁寧にあげながら、日蓮の天罰論をもし現代に適用するならば、まず聖教の軽視と日蓮宗徒の排除があったかどうかが検証されなければならないし、教学の前提をしっかりと論じた上でなければ自然災害=天罰論は主張できないとして、安直な天罰論に注意をうながした。日蓮における悪業の想定は、宗教的な業であって、社会的な悪としての業ではなく、日蓮原理主義からしても東日本大震災を天罰というのは無理があり、日蓮の天罰論を現代のわれわれがどのように理解するか、ということが現代における教学的課題として残されていると論じた。
これらの研究所の発表によって、各教団が震災問題に関して、いかに取り組み、またどのような教学的課題を負っているかを垣間見ることができる。すなわちキリスト教団においては「破滅、破局(カタストロフ)」の問題をどのようにとらえるかが中心課題となろうし、真宗教団においては政治色の強い現代社会批判の姿勢を見てとれる。新興宗教には職業的ボランティア志向があるし、日蓮教団には日蓮の熱烈な法華信仰をいかに現代化すべきかといった問題がある。真言宗において「震災と宗教」の問題はどのようにとらえられるか、いかなる特色が見いだされるか、また見いだされるべきであるか、問いかけられているといえよう。