教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第15回 愛宕薬師フォーラム平成26年2月28日 別院真福寺

生き甲斐を手に入れるための究極の方法とは~「律」に学ぶ生き方の智慧

講師:花園大学文学部教授 佐々木 閑 先生

生き甲斐を求めるにはどうしたらよいか。私たちはそれぞれ異なる価値観を持って生きているので、万人にとって共通の理想の生き甲斐は存在しません。しかしながら、それを見つけていくための道筋はある程度決まっていると思います。仏教という宗教はその生き甲斐を手に入れるにはどうしたらよいかを長く考えてきた宗教です。ですから、生き甲斐を求める人たちにとってのさまざまなヒントが隠されていると思っています。
本日は、お釈迦さまの時代にまで遡って、仏教的に生きるという本来の姿を参考にしてそのヒントを紹介していきます。

仏教的生き甲斐とは
人間は他の動物と異なり、自分の一生を出生から臨終までを一つの単位として捉えることにより、いつか自分は死ぬのだという自覚を持ちながら生きています。したがって、いずれ死ぬ自分の人生に対して、その意味を問うてしまう動物です。これは人間が抱える、ある意味で宿命的な不幸の元でもありますが、お釈迦さまが最初に考えられたのもまさにこのことでした。
当時のインドでは、バラモン教という宗教が根付いており、それは神さまがこの世界を絶対的に支配していて、そして、その神さまにより人間も生まれながらにして身分の階級や従事できる職業が決められている(カースト)と考えられていました。低いカーストに生まれた人は動物以下の扱いを受けて生きることを強いられますので、生き甲斐の追求など勿論できません。
そういった世界にあってお釈迦さまは次のように考えられたのです。カーストによって生き甲斐を奪われた不幸な人がいる、バラモン教的世界観は誤りであり、世界を支配する神々なんていない。そんな世界を生きて、老いや病いも免れないでいつか死ぬ私たちは、本質的に皆不幸である。ではこの絶望の世界にあって、私たちがすべき事は何かといえば、苦しみを生み出す原因となる自らの心を毎日の修行によって清らかなものに作り替えていくことである。この自己の向上に悦びを覚えることこそが生き甲斐なのである。――と。

仏教僧団とは
このように主張したお釈迦さまのもとには、カーストに関係なくあらゆる階級の人たちが「真の生き方」「真の生き甲斐」を求めて集まり、弟子となりました。そして、お釈迦さまは自らが到達した悟りへの道を弟子たちに教えました。この修行の指導により弟子たちは次々と悟りに至り、悟った弟子は、新参の弟子にその道を示して、結果、世代を超えてこの教えは伝わり二千五百年たった今でも続いています。この教育システムを有する組織こそが仏教僧団なのです。では、この組織はどうやって運営されてきたのでしょうか。
お釈迦さまに、世俗を離れて家を捨て、仕事を辞めて修行に専念せよと指導を受けているこの集団には、働いている人が誰もいません。百人規模の無職集団です。それどころか住所不定の無職です。
そこでお釈迦さまは生計をたてる方法を示したのですが、その方法が正しかったので、仏教は二千五百年たった今でも続いています。もし、ここで間違ったことを指示していたら、後に触れますが、オウム真理教(以下オウム)のようにすぐに破綻していたでしょう。
ではお釈迦さまの指示したその方法とは、何かといえば、大きな町の側(そば)に住み、そこの住人に頭を下げて、食べ残しや処分するようなものを施してもらって、それで生活するというものです。これを「托鉢」といいます。このように、仏教僧団は、一般社会に完全に依存するという形で運営されてきました。
そして、托鉢してもらった食べ物は午前中に一回のみ食べて、かつ残ったものは捨てることになっています。なぜなら、時間を区切っておかないと托鉢ばかりするようになり、それは仕事となってしまい修行に専念することになりませんし、食料を蓄えておきますとそれが執着のもとになってしまうからです。
この托鉢の方法を含めて、仏教僧団には、「律」というものがありますが、これは修行に専念することができるようにお釈迦さまが定めた全て合理的な根拠のある規則であり、この律に基づいて僧団は運営されてきました。
一方、オウム真理教はどうであったか。生活の糧を得るため、一般社会に頭を下げて残り物をもらうという方法をとりませんでした。そうではなく、入信者の全財産を教団に寄付させて、それを運営資金としました。入信者は、自由意志で布施したかもしれませんが彼らにも家族がいますので、たとえば、一家の大黒柱である父親が入信するとその家族は路頭に迷うことになります。また入信者と残った家族は自由に会うことも許されませんでした。
これに対して、仏教僧団は、入信者の財産の処分に関与することを禁じています。また、一般社会に支えてもらっているという自覚がありますから、僧団は社会に対して常にオープンです。一般社会の人は出家者に自由に会うことができます。
オウムは、信者家族とのトラブルを抱えての訴訟事件にはじまり、最終的には一般社会を敵に回した国家的テロ集団となり、十年ほどで破滅しました。オウムと仏教を隔てたのは何か。原則としてオウムの教えはお釈迦さまの教えと変わらなかったので、違いはその教えではありません。両者が異なっていたのはその運営方法だったのです。
世の中には「真の生き方」を説く、あるいは「生き甲斐を与える」と標榜する組織はたくさんありますが、オウムのように不幸をもたらすものもあります。ですから、そういうものに出会ったら、その内容よりも、「どうやって運営されているか、誰かを不幸にして運営されていないか」という点に注目することが何より大切です。

一生続く生き甲斐
さて、この仏教僧団というのはある一つの生き方を生き甲斐とする宗教でした。その生き方といえば、自分の心を改善していくという自己向上が生き甲斐になるというものです。
その他にも世の中には生き甲斐はたくさんあるでしょう。たとえば、お金や権力、肩書きを生き甲斐にする生き方もありまして、それはそれで、立派な生き方です。しかし、それらは、最終的に真の悦びをもたらさない、裏切られる可能性の高い生き方です。何かあれば、それらを失うことがあるかもしれないし、それらを獲得することが、直接幸福に繋がらない場合もあるからです。
また、自分の子どもを生き甲斐とする生き方もあります。子どもの成長過程を見守っていくことを生き甲斐とする、子を持つ親はたいていそうでしょうし、まず間違いない生き方ですが、子どもはやがて大人になり自立していくので、子どもを生き甲斐にするのは期間が限定されてしまいます。
これに対して、お釈迦さまの創った仏教僧団における生き甲斐はその性質上、一生続く「真の生き甲斐」となりうるものなので、それを人々に与えるという意味で多くの人に支持されて二千五百年も続いてきたわけです。

出家的に生きるということ
では、この托鉢をして独自の規則に従って生活し、自分の生き甲斐のみを追求するという仏教僧団の生き方ですが、一般通念でいえば、これはよくない生き方です。なぜならば、仕事をせずに社会からご飯をもらって生きている、大変ムシのいい生き方だからです。しかし、上座仏教の国の人たちは、僧侶に対して批判などしません。むしろ、尊敬して積極的に彼らの生活を支えてくれます。なぜかといえば、そういう生活をする替わりに僧侶は多くのものを棄てているからです。「律」という規則に従って、財産の所有、飲酒、着飾ることもすべてできません。
こうした生き方に対して社会は敬意を払って食べ物を施し、そして、僧侶たちはそれに応えて身を律して、自分の生き甲斐である自己向上のための修行に邁進するのです。
こうした仏教僧団の生活の仕方が「出家」という生き方です。出家とは現実世界の価値観に満足しない人たちが、そこから抜け出して同じ価値観を持つ人たちだけで集まり独自の島社会を作って、あるいはそういう島社会に入って生活することをいいます。そこで、自分たちの価値観に合った、つまりやりたいことだけをやって生きていきます。
この島社会はその性格上、生産性が低かったり皆無だったりするので一般社会と関係を築いて、彼らからの保護・施しによって生きていくわけです。
なぜ一般社会から保護を受けることができるのかといえば、世俗の楽しみなど何かを棄てているからであり、棄ててまで自分の追求するものに没頭して生きる、その覚悟が立派だということで、その見返りとして支えられるのです。これが仏教僧団でいえば、托鉢で生きるという姿です。
しかし、出家とは宗教用語ではありません。この世界の価値観から抜け出して、別の自分に合った価値観の世界に入ること一般をいうのですから、それは、他にも様々なヴァリエーションがありえます。
たとえば、「科学」です。大学や研究施設などで科学研究に従事する人たちの中には、自らの探究心に従い、社会に直接的には全く役に立たない研究をしている人たちがいます。それが科学者です。たとえば、宇宙の始まりとかビッグバンとか究明しても私たちの現実生活にはほとんど恩恵を与えません。
しかし、役に立たなくてもそうした人たちが存在しているということが、私たちの悦びであり励みになったりします。世の中にはこんなに自分の道を探求している生き方がある、しがらみに囲まれて生きている私たちの人生から考えると全く新鮮な夢のような生き方があるのだ――そういうことを示してくれることに私たちは悦びを感じるのです。
その見返りに私たちは、その科学者たちに「お布施」をしてその生き方を支えます。つまり、税金などが科学研究費や国立大学の研究者の給料と形をかえて支払われるのです。
この構図は、社会に支えられて自らの修行に邁進する僧侶と同じようなものでしょう。ならば、仏教僧団と同様に、科学者の世界にも守るべき規則があるはずです。仏教僧団には律というものがありました。社会に支えられて生きているという自覚を持っているので、これからも社会に支えてもらい、自らの道を邁進するために規則があるのです。悪事を働いた僧侶を罰するのは僧侶自身であるとなれば、その自浄作用を持つ組織として仏教僧団は立派であると感心され、支持されるというわけです。
では科学者が守るべきことは何かといえば、一般社会の楽しみを離れて研究に没頭すること、そして与えられた科学研究費を本来の目的以外で使ったり、あるいは研究において、データをねつ造したりしないということです。ねつ造して業績を誇示して研究費を多く手にしたら、これは詐欺です。「お布施」という研究費で研究に専念できるわけですから、科学者は、自らを律する必要があるのです。
科学の他には、「政治」の世界も出家的であるといえます。政治家は、本来は自分が属している社会を良くしたいという崇高な想いから志すので本質的に彼らは皆さん立派です。政治家が汚い人種だと言う人がいますがとんでもありません。私たちのために働くことが生き甲斐である政治家のその崇高な姿に対して、私たちは政治資金などという形で「お布施」をするのです。
ならば政治家にも守るべき規則があるはずです。たとえば、当然ながら政治資金を流用して会社を運営してはいけません。また会社の経営者と政治家の二足のわらじを履いている人もいますが、これも本来は許されません。というのも、社会を良くするためだけに働くという覚悟に私たちはお金を払っているわけですから。
こうして考えると、仏教の出家的な生き方は、実は世の中のさまざまな所で生き甲斐を追求している人たちの集団に形を変えて適用可能です。そして、私たちの日常生活の中でもスケールを変えて考えれば出家的な生き方はできます。
その際、一番大切なポイントとなるのは「その代わりに何を棄てるか」ということです。世俗の楽しみはそのまま保ちながら、自分のやりたいことだけをやる時間を手に入れることは叶いません。勿論、全ての時間を出家的に生きる必要はありません。たとえば、会社は給料を貰うための生活の手段ですが、その会社の中でも出世や給料とは関係のないところで自分の生き甲斐を追求することは可能です。私のことをいえば、花園大学で働いていますが、仏教を研究することが生き甲斐であって、給料のために働いていると考えたことはありません。本来の出家と比べれば、スケールも小さいし、永続的ではないかもしれませんが…。

生き甲斐は変わりうる
本日は仏教的な生き方を参考にして生き甲斐を見つけるためのヒントについてお話してきました。
ところで、私は若い頃、科学者になりたかった。その頃は、科学者になって世界の真理を探求していくことが私の生き甲斐だったわけです。今は、お釈迦さまの教えが生き甲斐で研究しています。
人の生き甲斐は、さまざまでしょうが、その時々の状況やあり方によって変わりうるのは自然なことだと思います。私の信念は、人の生き甲斐は年とともに変わってもいいというものです。だから、一人の人間が一生の間に一つのものに、無理してまでしがみつくこともないと思っています。生き甲斐が変わってしまったから節操がないなんて決して考えません。
皆さんがどういう生き甲斐をこれから見つけられるかわかりませんが、少しでも本日の講演がお役に立てたなら幸いです。

(構成/智山教化センター)