教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第30回 愛宕薬師フォーラム平成29年12月5日 別院真福寺

現在(いま)を生きる

講師:比叡山千日回峰行大行満大阿闍梨  光永圓道 先生

比叡山に伝わる厳しい修行
 私は、比叡山延暦寺一山の大乗院の住職を務めております。ご存知のとおり比叡山延暦寺は平成6年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
 織田信長の焼き討ちにより一山のほとんどが焼けてしまいましたので、伽藍の歴史的な価値はあまりありませんが、昔から修行をするお山として千二百年間、脈々と続いてきました。その歴史が評価されて世界文化遺産登録ということになりました。そのため、比叡山には昔から厳しい修行が伝わっており、特に三大地獄という、修行の厳しさを地獄に譬えるほどの厳しい修行が伝わっています。
 一つ目は浄土院の掃除地獄です。浄土院は、伝教大師最澄の御廟ですが、そこをお守りする人を侍真(じしん)といいます。その侍真が12年間、毎日三座あるお勤め以外はひたすら作務を続けるという修行です。お祖師さまをお祀りする聖域ですので、御廟の内外問わず、塵一つ残さないよう、時間の許す限り掃除を続ける修行です。
 二つ目が横川(よかわ)の看経(かんきん)地獄です。比叡山山中の横川というところに比叡山中興の祖と称される元三(がんざん)大師をお祀りする元三大師堂があり、そこにお仕えする執事(ゆじ)という人が一日七座のお勤めをひたすらするという修行で、夜中に始めなければ終らない修行です。お勤め中に鐘を打つ音が鈴虫が鳴いているように聞こえることから「谷の鈴虫」ともいわれています。
 そして、三つ目が無動寺の回峰地獄といいまして、私が修した千日回峰行のことをいいます。山中を白い装束で巡る姿があたかも白鷺が飛んでいるようにみえることから、「峰の白鷺」ともいわれます。

千日回峰行について
 今年(平成29年)、千百年御遠忌を迎えられた相応和尚(そうおうかしょう)という方が6、7年の間、毎日欠かさずに根本中堂にお花をお供え続けたことが千日回峰行の起源とされています。
 現在この行を修するためには、百日回峰行を修し終わった後に自ら志願し、師僧の許可を得て願書を書き、比叡山から許可を得なければなりません。許可が必要ですので、誰もができる行ではありませんし、自ら志願するわけですからやらされる行でもありません。記録上、織田信長の焼き討ち以降、私が50人目の満行者(北嶺大行満大阿闍梨)になります。
 回峰行といいますと「歩く」という面がクローズアップされがちですが、起源からいいましても、歩くのが目的ではなく、あくまでもお参りする場所まで行くための手段として「回峰」があります。ただし、歩くことは基本になります。無動寺谷からスタートして比叡山山中を廻ります。お参りする場所は全部で250から260箇所ほどあり、七里半(およそ30km)の距離を歩きます。実はこれには理由があり、大乗仏教における悟りの境地、阿頼耶識(あらやしき)をあらわす数字「八」の一歩手前の距離を歩くという意味で、七里半歩きます。あえて完成されたところまで歩かずに、常に自分自身を高めていくために七里半なのです。実際何キロ歩いたということではなく、何キロ歩いても七里半なのです。
 私は7年かけてこの行を修しましたが、一年間、100日を一区切りで行います。3月の下旬から始め、終わるのが7月上旬、200日を行う年は10月中旬まで行うことになります。一度始めましたら、雨が降ろうが台風が来ようが体調が悪かろうが必ず続けなければなりません。もし途中で行をやめるということになれば、自害をしなければなりません。服装は浄衣という白い死装束を纏い、首吊り用の紐と亡くなった時に顔に掛ける白い布を携行し、三途の川の渡し賃の六文銭を蓮華笠の中に入れて行を修する習わしになっています。それだけの覚悟をもっておこなう、命懸けの修行であるといえますし、だからこそ修行としての価値があると思います。

自利行としての回峰行
 歩くルートやどこでどのようなお勤めをするかについては、以前に満行された阿闍梨さまから伝法を受けます。伝法は基本的に一度のみですので、自分の頭をフル回転させて覚えます。お参りする場所が沢山ありますので、必死に覚えなくてはなりません。
 千日回峰行は、始めから400日までは自利、つまり自分のための修行です。そのうち300日までは蓮華草鞋という、一足の草鞋から紐が八本ある草鞋を素足で履き、蓮華笠は頭に纏わず自身の仏さまとして手に持ち歩きます。400日の行(301日目)から足袋を履き、蓮華笠を頭に纏うことができるようになり、五百日を終えると白帯行者(びゃくたいぎょうじゃ)となり、下根満(げこんまん)の行者となります。これは化他行の入り口に入ったという意味です。杖を突けるのもこれ以降からになります。そして、600日、700日の行を一年で行い、そのまま「堂入り」となります。
阿闍梨として生まれ変わる
 「堂入り」は、お釈迦さまが菩提樹下にて一週間瞑想して覚りを開かれたことを追体験する行です。また、行者としては一度亡くなって、阿闍梨として生れ変わるという行でもあるので、堂入りの前にお葬式を行います。これは縁のある僧侶の方々と今生の別れの食事をとってからお堂に入るという儀式ですが、実際には一口だけ口をつけてあとは食べないのが習わしとなっています。
 そして、お堂に入ってからは「断食」、「断水」、「不眠」、「不臥」を九日間続け、一日に三座あるお勤めと、一日一度お不動さまへお供えする閼伽水を汲みに堂外へ出る以外は不動明王のご真言を十万遍(一洛叉[いちらくしゃ])お唱え続けます。
 通常、水も飲まない状態でいられるのは一週間が限度といわれています。それを九日間行なうということは、自分の力だけではなく、仏さまのお力を頂戴したということになります。お不動さまから認められてお堂から出て来られたということで、阿闍梨として生まれ変わったということになるのです。
 堂入り中を含め、あとから考えてみるとこれが仏さまのお導きかというような経験はありましたが、仏さまと出会ったという確かな体験は私の場合はありませんでした。ただし、出会ったかどうかということはそれほど重要とは思っていません。行をして、お不動さまに認められて堂入りを終え、そして回峰行を満行できたわけですので、そちらのほうが重要だと考えています。

化他行としての回峰行
 こうして、堂入りをおえて、800日の行(701日目)からは実際に化他行に入ります。通常の比叡山内の回峰行に加えて、京都市内の赤山禅院というところまで足を延ばして歩きます。赤山苦行といいますが、距離は七里半の倍、十五里(およそ60km)歩きます。最初の七里半は自利行で比叡山山中を、後半は化他行で赤山禅院まで歩きます。到着は夜中の3時や4時くらいになりますが、そんな時間にも関わらず、信者さんが待っていてくださいます。そこで、お加持をさせていただき、またお山に戻るということを百日間つづけます。
 そして、900日の行(801日目)からは京都大廻りという、京都市内を歩く行がはじまり、これも百日間つづきます。歩く距離は七の三倍で二十一里(およそ84km)を歩きます。
 行は但行礼拝(たんぎょうらいはい)(救いの心をもって拝む)であり、歩く姿勢は歩行禅のかたちをとります。その基本は身口意の三業を調えることです。

身…ひたすらに歩く前提として、身だしなみを調えて歩きます。
口…雑念を払うためにお不動さまのご真言をお唱えしながら歩く。お参りの場所でお経、真言をお唱えする。
意…仏さまのお力をいただいて、物事が成就するように心に仏を念じる。

 そして、975日をもって千日回峰行は満行となります。あえて、千日歩き切るのではなく残り25日は一生かけて修行をするという意味です。私自身も回峰行自体は八年前に満行していますが、心の中では今でも修行中という気持ちでいます。この行に入ってからは「行不退」、今でも前向きに行を続けているという気持ちでおります。

伝える回峰行
 千日回峰行を満行すると、京都御所で「土足参内(さんだい)」という天皇陛下の玉体をお加持させていただく儀式があります。これをもって「千日回峰行」としての一連の流れが終わりますが、さらに次の行者へこの回峰行を伝えて役が終わるということになります。
 「解行(げぎょう)双修(そうしゅう)」という言葉がありますが、まず自ら修行して、その行を理解して次に伝える。この二つが揃って修行であるといいます。また、言葉は少し違いますが、伝教大師さまは、『山家学生式(さんげがくしょうしき)』において、まず自分で実践し、それを人に伝えることができる人を国の宝とし、伝えることのみをできる人を国の師、行のみを行う人を国の用、何もしない人を国の賊と仰いました。修行を実践するのは勿論のこと、次に伝えて一区切りといえるのではないでしょうか。これはやり方は違っても宗派問わず同じことだと思います。
 私自身はつい最近次の阿闍梨への伝法が終わりましたので、僧侶としてはまだまだ駆け出しですが、行者としては隠居のような立場となりました。

現在(いま)に満足することなく、常に上を見続ける
 さて、ここからは行に対する思いや、「現在を生きる」について話をしたいと思います。
 回峰行に入る動機は行者それぞれ違うと思いますが、私自身は病気が治った御礼参りとして回峰行に入らせていただきました。比叡山に入山したのは十五歳の頃で、子どもの頃から患っていた小児喘息をなんとかしたいという思いからでした。入山当初は僧侶になろうとは全く思っていませんでしたが、しだいに喘息が落ち着き、僧侶となり、そしてついには千日回峰行に入らせていただきました。
 そのような理由で行なった回峰行ですが、正直な話、思い返すと行の八割が後悔でした。それはどんなに一生懸命やってもあの時こうすれば良かったと思うことが必ずあるからです。他方、ある程度後悔を残さないと次には進めないのではないかとも考えます。もう少しこうすれば良かった、ということがあってこそ次の改善につながるのではと思います。
 今に満足することなく常に上を見続けることが大切だと思います。ですので、行としては回峰行を満行しています。しかし、八割は失敗しているのではないかと思いますが、それが今の私の生き方の土台になっていると思います。
 そして、行を終えて回峰行を伝える立場になった今、私見を加えずに授かった教えをそのまま伝えることにしています。私見を加えてしまうと千百年もの間、脈々と続いてきた行が少しずつでも変化してしまいますから、自分の解釈は加えずに、そのまま伝えています。それが伝承するということになるのではと思います。
 また、指導方法として、行者へ情けをかけることはしません。行中、山の中ではすべてを一人で行なわなければならず、怪我をすれば痛みもすべて自分に返ってきます。人を怒ることは大変にエネルギーのいることですが、失敗は一回で済むように時に厳しく、行者がなるべく後悔を残さないような指導を心掛けています。

基礎を身につけ、化他行は手を抜かず
 さて、千日回峰行には精神論は全く説かれておりません。まずは作法・形を覚えることから入ります。形を覚えてはじめて心を込めることができるのではないでしょうか。回峰行では形ができるまで700日かかりますので、その後に化他行に入るのです。700日も行を続ければ必ず余裕が出てきます。その余裕を人のために還元する、それが化他行につながるのです。基礎として形をきちんと身につけ、そして人のための行に入った以降は手を抜くことなく、なお一層全力で行わなければならないと考えます。
 以上が千日回峰行をとおしての私の考え、思いであり、それが「現在を生きる」ということにつながるのではないかと思います。

(構成/智山教化センター)