教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第35回 愛宕薬師フォーラム平成31年2月13日 別院真福寺

日本の妖怪と神仏―妖怪文化にみる日本人の宗教意識―

講師:大東文化大学非常勤講師  今井秀和 先生

神仏と妖怪
私たちが知っている「常識」というものは、実は時代ごと国ごと、あるいは宗教や、個々人の職業などによっても異なってくるものです。当然、江戸時代、中世、古代では、人々の常識というものは、それぞれちょっとずつ、時には大幅に違ったりします。 私たちの先祖は常識として信じていたのに、現代に生きる私たちが信じていないものごとがあるように、私たちが持っている常識も恒久不変のものではありません。現代人の子孫の時代には、いま現在は常識であることが、まったく見向きもされない過去の知識になっている、ということもあるでしょう。この「常識」という要素は、本日のテーマである「妖怪」なるものがどのようにして生まれ、変化してきたかを考える上での前提にもなってきます。

 古来、日本人は人智を超えたものごとの背後に超自然的な存在を想定してきました。例えば、自然の造形とは思えないような奇岩や巨石、人間が想像できないような長い年月を経てきた巨木、長年にわたって姿形の変わらない山岳、山火事や落雷、火山の噴火や、川の逆流現象などなど……。人間の力では作れず、また壊せないような存在、そして簡単には起こせないような現象の背景に、何者かによる不思議な力を感じとってきたわけです。
 例えば、天気が晴れているときに雨が降ることがあります。これをただの「お天気雨」とするだけでなく、日本人は「狐の嫁入り」とも呼んできました。つまり、珍しく狐が嫁入りしているから、晴れていても雨が降るのだ、というようにも理解してきました。自分の常識で理解できないことを何かに託して理解しようとする精神性が、古くから日本にはあったわけです。
 人間にとって不可思議なものごとを引き起こしていると考えられていた超自然的な存在を、至極簡単に言い換えてしまえば、民俗学でいうところの〈カミ〉ということになります。ここでいうカミとは、人にとって良いことや、場合によっては悪いことをもたらす存在です。この存在が信仰の対象となれば「神」と呼ばれますが、しかし、不思議な現象は起こすけれども目立った信仰の対象とはならない存在もあります。ここでは、この存在を「妖怪」と呼んでおきたいと思います。いわば、小さき神々としての妖怪です。一般には、妖怪というと悪いもの、神といえば良いものと考えられがちですが、その境界線は非常に曖昧なものなのです。
 仏教のなかでの仏も、大きな視点からいうならば、カミ的な存在です。仏教が日本に伝わって以降、ときに日本古来の神と仏とは分離するのが不可能なくらいに混ざり合います。いずれかひとつを外してしまうと日本文化全体の理解が困難になってしまうくらい、密接に関わり合っているものなのです。

天狗にさらわれた少年
 私は昨年、江戸期の国学者である平田篤胤(ひらたあつたね)が記した『仙境異聞(せんきょういぶん)』という書物の一部を現代語訳し出版しました。この『仙境異聞』とは、文政年間(1818~1830)に、天狗が住むという仙境(異世界)と、この世とを往来することができる「天狗小僧」として世間の注目を集めた少年、寅吉(とらきち)が語った異世界の様子を篤胤が記録し、まとめたものです。
 寅吉は常陸の国(現在の茨城県)にある岩間山(笠間市の愛宕山)、筑波山、加波山など、修験道の修行場だった山々が、仙境に繋がっていると知識人に語ります。現代であれば、子どものいうこととして誰も信じないと思うのですが、江戸後期には、なぜかこれを信じ込んでしまう複数の大人たちがいました。そのなかには、江戸幕府の中枢に関わっているような人物もおり、江戸の知識人たちは寅吉を中心とした小さな宗教コミュニティのようなものを形成していくことになります。
 そして、この中心にいたのが篤胤でした。篤胤は、独特の見解に基づいて日本の神々に関する知識などを整理し、日本神話の体系化を目指した人物だといえます。ただし、他の国学者と異なるのは、神々や異世界の実在を確信し、独自の強い信仰心を持っていたところです。篤胤は、どうしたら、こうした知識を整理して世の人々に正しく伝えられるだろうかと本気で考え、探求していました。それ故に、寅吉少年がもたらす異世界の情報を深く信じ、逐一記録を取っていくのです。
 それではまず、この『仙境異聞』に記された天狗の内容を紹介し、そこから徐々に妖怪と神仏の関係性に迫っていくことにしたいと思います。 

私(篤胤)は寅吉に尋ねた。「鳥獣の行く末はどうなるものか、聞いたことはないか」
寅吉は言った。「鳥や獣は色々なものに生まれ変わり、また、やがては消え失せもします。(中略)また、そのなかで猛々(たけだけ)しく強く生まれついたものについては、ついに天狗となるものもあります。鳥の場合は手足を生じて立ち歩き、獣の場合は羽を生じて、ともに人に似た姿となるのです。(中略)また、鷲(わし)も年を経たものは白くなり、人のような手足が生じて立ち歩くようになり、剛強自在の力を得ます。鳶も同様です。(中略)鷲や鳶だったものはそれらを使い、妖を為し祟(たた)りを為し、また人の祈願を聞き届けて、霊験(れいげん)を与えることもあるのです。こうして人々はこれらを恐れ尊んで、なんとか坊だとかなんとか権現だとか名前を付けて敬っては祀るのです。さらに、凡人であっても、生きたままに鼻が高くなり、翼を生じて変化することがあります。人が死んで、その魂が天狗のごとく変化することもあります。(中略)しかし、大概は出家した僧侶が変じたものであって、こうした者が変化した場合に善であることは少なく、まずはことごとく妖魔の類だと思っておくべきです」
(平田篤胤著、今井秀和訳・解説『天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞』(角川ソフィア文庫、2018年)での現代語訳をもとに、読みやすさに配慮して一部を変更)。

 おそらく寅吉が語った情報には、自分が周囲の大人たちから聴いて再構築した、ある程度一般的な知識と、寅吉自身の見解とが混在しているものと思われます。寅吉は他者からインプットした知識に自己の想像力を加えて、独自の「異世界」観や宗教的な価値観を構築し、平田篤胤に尋ねられた際にそれらをアウトプットしていたと考えられるのです。
 寅吉の言葉の中には、当時の僧侶に対しての辛辣な見解も見られます。篤胤のような国学者は、外国から伝来した仏教を、神道の立場から度々批判します。逆にいえばこれは、神道に足場を置こうとする者が、仏教を無視できないことの表れでもあります。神道にはもともと体系立った教えがあるわけではないので、当時の国学者や神道家は、思想の背骨になる理屈を仏教、儒教や道教など、大陸由来の宗教や思想を借りてくる必要がありました。だからこそ神道サイドは仏教を辛辣に批判して自分たちの正当性を示そうとしていたわけです。
 日本において、神道と仏教とは互いに参照や批判をしつつ、相互に影響を与え合うことで成長してきました。こうした日本の宗教事情を踏まえたうえで、寅吉の言動が、仏教よりも神道を高く位置づけていた平田篤胤に配慮したものであったのか、それとも純粋に寅吉自身の考え方であったのか、それは不明というほかありません。

天狗のルーツ
 そもそも天狗は中国由来の知識で、王の悪い政治などによって世の中が乱れると、それに連動して現れるという不気味な流れ星が、尾を引いて轟音を発しながら通り過ぎていくことから、天をかける狗(キツネ/イヌ)、つまり「天狗」と呼ばれるようになったようです。
 日本に伝わった天狗は、中国のそれとは少し意味が異なり、悪い兆しを示す星として古代の『日本書記』などに示されます。それが平安時代に入ると、『源氏物語』などに、人をたぶらかしてさらっていく存在として記されるようになります。平安時代の「常識」における天狗のイメージはおおよそ、空を飛んで人をさらう、どうやら山に住んでいる得体の知れない存在、というようなものであったようです。
 さらに平安後期以降の天狗は、仏法に反する妖怪的な存在としての意味を強め、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などに登場することになります。こうした物語の中での天狗は、ときに鳶の姿などをとって人間の前に現れます。寅吉はこのような古典に記される知識を、どこかで見聞きしていたのかもしれません。
中世に入ると、天狗が絵画として表現されるようになります。そこでは、のちに「カラス天狗」と呼ばれるような鳥人間の姿が描かれており、さらに時代が下ると、赤ら顔の鼻の高いおじさん、いわゆる「鼻高天狗」のような姿を獲得していきます。
 江戸期に入ると、出版技術の進歩によるカラーでの大量印刷にともなって具体的な「天狗」イメージの共通化が、爆発的に進むことになります。
 また天狗は、物語や絵画の中で源義経の剣術指南役などとしても描かれるように、仏法を妨げるだけでなく、「改心した仏法の守護者」としても認識されるようになり、各地の寺院に祀られることにもなりました。こうして天狗のイメージは、一方で妖怪的な悪者、他方で祀られた〈カミ〉的な存在として重層化していくことになります。
 このように、中世の絵巻物や江戸期の刷り物などの絵画表現も含んだかたちで、天狗のイメージは変化を遂げつつ一般化していきました。現代人である私たちが無意識に享受している「天狗」知識は、こうした文化史の延長線上に位置しているのです。

鬼の変遷
 では、鬼はどうでしょうか。鬼というと、節分のときにスーパーで売られている紙のお面のような、赤や青の顔色をして頭に角を生やし、寅のパンツを履いているようなイメージですが、このイメージも中世から江戸にかけて作られたものでして、それ以前になると、そのような姿で認識されてはいませんでした。
 死者、幽霊、あるいは精霊のような意味が含まれる中国の「鬼(キ)」という漢字に対し、日本語の「オニ」は、人に害をなす悪しきもの一般を指す言葉でした。例えば古代に流行した疫病は、かつては原因のわからない不可思議なできごとであり、「オニ」の仕業であると考えられました。こうした漠然とした「オニ」のイメージに「鬼(キ)」という漢字があてはめられて、私たちが考えているようなイメージが作られていきます。
 古代の『風土記』などに出てくる鬼は、あまりはっきりした姿では記されていません。古代から平安時代にかけての人々は、恐ろしいものの絵は、描いて現実に出て来てしまったら困るから描くことができなかったようなのです。
 しかし中世になると絵巻物の中に、鬼の統領である「酒呑童子」だとか、大蜘蛛の化物である「土蜘蛛」だとかの姿が詳細に描かれるようになります。絵巻物のラストでは、必ず武士がこれらの妖怪を退治してくれるのです。つまり、怖いけれども、最後に武士が倒してくれるものとして、鬼や土蜘蛛などの妖怪たちが描かれることになるのです。
 これが江戸時代に入ると、妖怪に対する恐怖も持続しますが、一方で、出版文化の中でキャラクター化したイメージが一般化することにもなります。天狗も鬼も河童も、当時のマンガ的な出版物の中では、戯画的な描き方をされることになるのです。人にとって1番怖いのは得体の知れないままの存在ですが、ひとたび絵に描かれると、「怖いけれど、何とかなりそう」という心理がはたらくようです。こうして妖怪を怖れる心は薄らぎ、それらを信じる心も次第に希薄になっていったものと思われます。
 江戸後期になるとすでに、天狗の存在を強く信じていた篤胤のような存在ばかりではなくなりました。だんだんと妖怪的な存在を本気で信じる人が減っていたからこそ、寅吉のような、天狗を実際に見たと明言する少年が脚光を浴びるようになったのかもしれません。

妖怪図像と仏教絵画
 さて、出版技術の発達とも相まって、江戸期には妖怪が頻繁に描かれるようになりましたが、そこにも妖怪と仏教との関わりを見出すことができます。なぜなら、江戸時代に描かれた妖怪の絵には、仏教絵画からのモチーフの転用が度々見られるからです。
 天狗や鬼といった妖怪には、もともと明確な姿がありませんでした。古代には神話や伝説といった形で記録されていましたが、中世までは積極的に描かれることはありませんでした。しかし中世に登場してくる「鬼」の姿は、仏教で用いる「地獄絵」(地獄極楽図)に描かれた「獄卒」(地獄の番人)の姿を転用したものだと考えられています。
 また、「地獄絵」に描かれる責め苦の1つに、生前に罪を犯した亡者が、ガタガタと軋む燃えさかる車に載せられて、地獄の獄卒に引き回される「火車」があります。そして、これとは別個に作られた江戸期の妖怪話に「片輪車」があります。
 面白いことに、鳥山石燕(とりやませきえん)という絵師の『画図百鬼夜行』シリーズという妖怪画集に、夜中に一輪だけの車輪が音を立てて往来をゆく妖怪「片輪車」が描かれています。この絵は、「地獄絵」に描かれる火車から図像のモチーフを借りてきています。地獄絵にある火車は、必ず獄卒・車・亡者がセットで描かれますが、石燕は片輪車の姿を創作する際、「地獄絵」の火車を参考に、そこから獄卒だけを取り除きました。そして燃えさかる車に乗せられた女性を、片輪車という妖怪そのものとして新たに意味付けしているのです。
 このように、ある特定の妖怪を描こうとする際、仏教絵画など、別のネタ元からモチーフを切り取って新たに別の意味を与えて使用してしまうというのが、姿なき妖怪に形を与えるときの1つの方法でした。
 「地獄絵」以外の転用例としては、世の無常を体得するために修行に用いられたという「九相図」があります。九相図とは、野に打ち捨てられた美女の死体が腐乱し、白骨化し、ついには散じるまでの九段階の様子を描いたものですが、妖怪画集、桃山人作・竹原春泉斎画『絵本百物語』(『桃山人夜話』)には、九相図に含まれる女性の真新しい遺体の図や、腐乱して膨らんだ状態の遺体の図をもじったと思われる妖怪画が収録されています。
 「地獄絵」や「九相図」などが表す教えに宗教的に深い共感を得ている人であれば、たぶんそのような操作はしないでしょう。しかしながら江戸時代の絵師たちは「この仏教絵画はおもしろい。ちょっとパロディを作ってやろう」と思って遊んでいるわけです。
 江戸後期においては、「地獄絵」や「九相図」を信仰の対象として重要視している人たちがいる一方で、仏罰を畏れずにパロディ化している絵師もいれば、それを見てクスリと笑う町民や武士たちもいたわけです。そこからは、生真面目な「信仰」の周辺をめぐる、当時の人々のさまざまな態度を窺うことができます。
 そのようなドライな宗教観が、明治以降もどこかで尾を引いている部分はあるかと思います。明治に西洋文化が入ってきて、突然、万民が科学に目覚めた! というよりは、すでに江戸後期の時点で、江戸の町人すべてが神や仏を深く信じていたとか、あるいは妖怪を怖れていたとかいうわけではなかった、と考えておいたほうがよさそうです。
 だからといって、江戸後期から信仰に対してドライな感覚を有していた日本人たちが、近代以降は科学万能主義に染まったかというと、そうでもありません。例えば近代には「千里眼」や「念写」といった一種の超能力がブームになりましたし、現代に入ってからも、非合理なものごとに対する興味が突然、世の中でもてはやされるということがあります。
 今日、はじめに申し上げたように、時代や地域、宗教、あるいは個々人によって、「常識」は違い、また変化し得るわけですが、古代から中世を経て、江戸にいたるまでの神仏や妖怪を眺めていくと、かえって現代に生きる私たちは果たして科学的に生きているのか、あるいは信仰を自分のなかでどのように位置づけているのか、ということを考えさせてくれます。このように、妖怪文化にみる日本人の宗教意識という観点から、仏教についてまた新たに考えてみることもできるのです。

(構成/智山教化センター)