第33回 愛宕薬師フォーラム平成30年9月28日 別院真福寺
手を合わせると-人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか-
講師:京都府立医科大学名誉教授 棚次正和 先生
人はなぜ祈るのか
手を合わせるという行為は合掌するともいいますが、これには衆生と仏のような二元的な対立を解消し統一するという意味があると思われます。一説によると、手のひらから生命エネルギーが出ているともいわれ、右手からは右回りのエネルギー、左手からは左回りのエネルギーが出ています。そして、エネルギーには男性性と女性性があり、右回りであれ、左回りであれ中心から広がっていく拡張性としての男性性エネルギーと中心へと収縮していく女性性の生命エネルギーが出ているというのです。
なぜ人は祈るのかという問いへの答えは、人は祈らずにはいられないということと、理由などなしに自然本性として祈るということの二つがあります。後者が私の答えです。ではなぜ人は祈らずにはいられないのでしょうか。それは人が弱い存在と思われているからです。困ったとき、助けてもらいたいときは、絶対的な力をもっている神さまや仏さまに助けを求めるほかはないという理解の仕方です。私たちが生きていくなかで、苦しみはつきまとってくるものです。お釈迦さまの悟りは四聖諦で示されていますが、その中の苦諦が人生は苦であるということです。しかし、お釈迦さまのすごいところは、人生は苦であるで終わらずに、それには原因があると考えたことです。どうすれば苦から解脱するかということを八正道で説かれたわけです。八正道の最初は「正見」といいまして、物事を見るときに固定観念を持たずに正しく見ることをいいます。最後は「正定」といって正しい瞑想をすることに終わるわけです。正しく見ることから始まり、瞑想に至る。瞑想することは禅定ともいいますが、これは極めて重要な修行です。
祈りに対して、一般的には三つの誤解があります。一つは、祈りは「お願い」であるというものです。祈るということは、苦しい時に神さまや仏さまにお願いするというこの考え方は、私たちから抜けきらず、これが祈りだと思っている方が大勢います。人間は弱い存在だから神さま仏さまに助けていただくと考える。この考えには自分自身に対する過小評価が前提にあります。自分で自分の限界を決めてしまい、それを超えた場合には自分の力ではどうしようもないと思ってしまう。だから祈りはお願いであるとなってしまうのです。
二つ目の誤解は、祈りは「念力」であるというものです。想念の力で望ましいことがらを引き寄せるという考え方です。このことは事実かもしれませんが、祈りは想念の力で引き寄せるということとは正反対で、むしろ想念の力が消えたところから本当の祈りが始まるのだと考えたいと思います。
最後の誤解は、祈りには「現実的な効力はない」というものです。宗教者のなかにも祈っているだけではなくて行動しなければ駄目だという方が大勢いますが、これも誤解です。心の働きに関して、ある種の誤解や無知があるのです。私はこの祈りの理解を根本から捉え直す必要があると思います。
もともと日本語の祈りということばにはどういう意味があったのでしょうか。祈りの語源解釈に共通しているのが、「いのり」の語構成は「い+のり」であるということです。「い」は神聖なものを指し、「のり」は法(のり)や告(のり)と同根であり、みだりに口にすべきではないことばを口に出す、という意味があります。さらに「い」は呼吸(いき)や生命(いのち)のことをも指しています。これに着目すると、祈りは息や神聖なものを宣言することを指しています。つまり生命の宣言です。生命の根源の響きをことばに乗せて響かせる。生命を根源から生きることという意味です。生きるということの具体的な姿は生命の根源から息をするということ、つまりいきいきと生きることが「いのり」の意味です。この解釈から考えると、人間は弱い存在だから祈るということではないとわかります。鳥が大空を舞い、魚が水の中を泳ぐというのは、自然本能として普通に行っていることです。人間の場合も自然本性として祈るのです。
人間とはそもそも宗教的な存在なので、絶対的なものを求めざるをえません。例えば初詣をするほとんどの人はお願いとしての祈りをしています。しかしそこでこそ、いきいきと生きるような祈りをするべきだと思います。祈りは神さまや仏さまと取引をするようなお願いではありません。そして祈りは念力でもなく、この念の力が消えたときに初めて祈りとなります。さらに祈りには現実的な力があります。心のなかの出来事は現実に影響を与えないと思われていますが、私たちが思ったり考えたりしていることが現実世界を作っているということに私たちは気がついていない。人が作ったものであれば、考えたものが形になっていることが理解できますが、山川草木のような自然界の事物も心のなかの観念が具現化したものだと推測ができます。なんの目的も意志もはたらかないで自然界の事物ができたとは考えにくい。祈りには現実的な効力があるということを次に説明したいと思います。
祈りは何をもたらすのか
祈りがもたらすものについては次の三つの要素があります。その一つ目が霊性の開顕です。霊性とはスピリチュアリティともいわれます。仏教では仏性になりますが、私たちは仏性をもともと持っていることを自覚するということです。私たちは生命の根源から放たれた一筋の光のようなものです。光であることを自覚するということです。これは祈りの実践をとおしてこそ、この自覚が深まっていく。真言宗の場合、大日如来と自分が一体であるという自覚です。大日如来という根源的な仏が自分のど真ん中に鎮座している。自己と超越者がひとつに結ばれることです。
二つ目は他者との絆を再認識するということです。人間はそれぞれ個に分かれています。肉体によって個が別れているようにみえるのです。だから生きていると孤独を感じたり孤立感を深めたりさまざまな問題が生じています。ところが、祈るたびに自分と他者が心では繋がっているということが、再認識される。私も、他者も根源から放たれた同じ光だと理解できる。だから他者との争いは意味をなさない。するとこの世界は平和になる。自己と他者がつながる。
三つ目は自然との共生です。自然界の事物がみんな仏性を持っている。ばらばらに分かれてみえているけれど、全てはひとつの生命につながっているということです。自然との共生に気がつくことができる。このような話をすると、単にあなたがそう思っているだけじゃないかともいわれます。仏道の修行を積んでいる方はすぐわかる話ですが、そうでない方はピンとこない。そこで、祈りが持っている治癒効果を科学的に実験した研究がありますので、それをご紹介したいと思います。
祈りの治癒効果に関する科学的研究
日本では祈りや瞑想に関する科学的研究は残念ながら大変遅れています。その一方で日本人の精神性には相当深いものがあるといえます。なぜ科学者がそれを研究しないのか不思議です。欧米ではこの種の研究はたくさん行われてきております。
あるサンフランシスコ総合病院の心臓病専門医でランドルフ・バードは、心臓病集中病棟の患者約四百名を、祈られるA群と祈られないB群にランダムに分け、祈る人と祈らない人がお互いにわからないようにして、全米から集めた祈り手による祈りの治癒効果を調べる実験を行いました。一九九八年に報告された結果では、抗生物質を必要としたのは、A群は三名、B群は16名。気管内挿管を必要としたのは、A群は0名、B群は12名でした。このことから、祈りには治癒効果があり、その効果は空間的な距離が障害にならないことがわかったのです。もしも祈りのエネルギーが物理的なエネルギーだとしたら距離の二乗に反比例しますが、そうではありません。つまり、心とは非局在的なものです。心はどこにあるかというと、頭や心臓、お腹などの体の特定の部位にあるのではない。いわば体の枠をはみ出ているのです。
アメリカの民間研究機関スピンドリフトでは、1970年代から祈りが与える影響力を研究し、ライ麦や大豆の種子に対して祈り、祈った種子とそうでないものを比べました。すると祈ったもののほうが発芽率が高かった。またストレスに対する影響も調べたところ、塩水にひたしてストレスを加えた方が発芽率が高かった。このような実験を積み重ねて概念的全体の法則がわかりました。これは個別に祈った影響がおなじ概念で括られる集合全体にいき渡るということです。そして、具体的に何かをイメージして祈る目標指向の祈りと、目標をイメージせずに大いなるものに任せるように祈る非目標指向の祈りの効果にも差がありました。非目標指向の方が良い結果が出ました。
アメリカ国立衛生研究所に在籍していた医学研究者であるラリー・ドッシーは、今後医学がどのような方向にいくかを示唆しています。第一期は唯物医学といい、肉体だけを対象にして行う医学です。第二期になると心身医学となり、心と体の相関を視野にいれたもので現在はこれに当たるでしょう。第三期は非局在医学になるといっています。普通の病院は臓器別に診療科が分かれていますが、非局在医学では、肉体のどこかに病気の原因が局在化しているとは考えないので、最終的には医者に行かなくても治療ができる。画像診断の遠隔治療は現在でもありますが、それどころの話ではない。患者と医者が地球の裏側くらい離れていても治療ができる。医療のありかたも今後大きく変わっていくと思います。これは、人間という存在をどのように捉えるかという話にもつながります。肉体という塊のなかに収まっているのが人間ではない。肉体から心は大きく離れているし、無限大に広がっている。そういう人間の捉え方が今後出てくるわけで、そうなってくると医療の有り様が変わってくると思います。
2012年に、筑波大学名誉教授の村上和雄先生と協力して祈りと遺伝子の研究を始めました。祈りそのものではなく、護摩行に関する実験です。真言僧侶と一般信者を対象に、護摩行の前後に採血をし、DNAマイクロアレイによる遺伝子発現解析と、メタボローム解析により血中の代謝産物を調べました。それと同時に、共感性プロセス尺度というのを用いたアンケート調査を行いました。その結果、僧侶型遺伝子があるということがわかりました。それはインターフェロン関連遺伝子という自然の免疫を活性化する遺伝子です。また、遺伝子以外にも僧侶型代謝産物(分岐鎮アミノ酸、マイオカインなど)というのも見つかっています。そして、それらの因子と心理的な共感性の関連の度合いを調べると、僧侶の方が共感性の度合いが強い。共感性というのが仏教でいう慈悲の心と繋がっているだろうと推定していましたが、これらの間に相関関係があることがわかりました。
おわりに
以上ご紹介した事例から「祈りは何をもたらすのか」という問いに対し、祈りには現実的な効力があるということをご理解いただけたとか思います。私たちは宗教者のものだと思われている祈りを万人に開放し、私たちが自然本性として祈っているという理解をしなければなりません。いきいきと生きることが祈りなのですから、いきいきと生きている人は自然と祈っているのです。そして、生きることと祈ることの間に深いつながりがあることに早く気がつくべきではないでしょうか。