教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第26回 愛宕薬師フォーラム平成28年12月9日 別院真福寺

再興!日本仏教―21世紀の社会に仏教はどう応(こた)えていくか―

講師:慶應義塾大学非常勤講師  正木 晃 先生

近代化と宗教の労働観
仏教を論じる上でいろいろな捉え方があると思いますが、日本仏教を再興していくためには、「近代化」と「内面化」と「死後世界と霊魂」の3つの問題を、同時に考えていかなければなりません。そして、考えていくだけではだめで、実践がともなわなければ、意味がありません。
まず、とりあげるのは近代化です。近代化は必ずしも善ではなく、負の側面が大きいのですが、近代化できない宗教は21世紀には生き残れません。これは確実です。
「近代化」にとってもっとも大きな要素は産業化に基盤を置く資本主義です。産業化は労働観の確立なしに成立しません。一生懸命働いたら見返りがあり、同時に精神的な喜びがあるという労働観がなければ、人は働きません。歴史をふりかえってみると、労働観の確立には宗教上の意義づけが不可欠だった事実に遭遇します。
仏教、キリスト教、イスラム教はどうような労働に対してどのように考えてきたのでしょうか。ブッダは「働かず、ひたすら瞑想修行をしなさい」と説きました。キリストは「思い煩わなくても、神さまはいろいろなものを恵んでくださる」と説教し、労働についてほとんどふれていません。
しかし、キリスト教発展の基礎をつくった使徒パウロは「労働することは神への奉仕だ」といいました。やがてこの考え方が、長い長い時間を経て、キリスト教宗教改革の指導者だったカルヴァンに影響を及ぼし、カルヴァン主義として台頭していきます。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、「まじめに働き、正当な利潤を得ることは、キリスト教の信仰生活として健全な行為である」という考え方が資本主義を生み出したというのです。
イスラム教は開祖のムハンマドが商人だったことから、労働はおおむね商業活動、経済活動というかたちで語られます。イスラム教の経済に対する認識は「財産は神に属すること」と「完全な平等は必要でもなければ、望ましい状態でもない」ということです。イスラム教徒の生活は、「労働の時間」「余暇の時間」「信仰の時間」の3つに分けられます。このなかでもっとも大切な時間は信仰の時間です。「働く時間があったら神さまにお祈りしなさい」と説かれています。この考え方は、資本主義とは相容れません。
では、日本仏教はどうだったのでしょうか。近代化につながる労働観を確立した人の一人に、鈴木正三という江戸時代初期の曹洞宗の僧侶がいます。正三は「自分の職業をまっとうすることこそ、仏道修行だ」といいました。最近の研究では、日本人の労働意欲をかきたてたものは、正三のような民衆相手に仏教を布教していた人だといわれています。こういう労働観は、ブッダの教えとは百八十度違います。しかし、ただひたすら悟りを求めて出家した者はともかく、一般の人々のためには、むしろこの方がよいのではないかと思うのです。
このように、日本人は近代化の前の時点から、「真面目に働くことが人間の本分だ」と思ってきたようですが、世界全体の動向からすると、実は稀な考えなのです。労働というものは仕方なくするものだという考えのほうが、世界全体を見回すと、むしろ普通なのです。こういう日本人の労働観こそ、西欧諸国に続いて近代化できた大きな要因だった可能性があります。
このように労働観の確立には宗教上の意義づけが重要です。労働を介さずにお金がお金を生む、成熟というよりも腐爛した現代の金融資本主義だからこそ、労働に聖なる意義をあたえる必要があるのではないかとも思います。
 
内面化の功罪
次は宗教における「内面化」の問題です。明治維新以降、日本仏教の近代化はいかに内面化するか、が主な課題でした。近代化とは欧米化することであり、欧米的な価値観を自分たちの価値観として受け入れていくことです。つまり、日本仏教の内面化とは、合理的で個人的な、欧米的な見方で日本仏教を捉え直すことでした。
たとえば、内面化によって、経典の解釈が変わっていきます。そこに説かれている内容が神話的であろうと、誇張された表現であろうと、それらを個人の内面で起こる精神的な出来事として解釈します。また、普通に読めば現世利益としか解釈できないところも、精神的な至福の享受と解釈していきます。つまり、宗教における内面化とは、宗教をもっぱら個人の心もしくは精神の領域に限定することにほかなりません。いいかえると、身体性の排除です。
内面化が徹底されてくると、教えが思想や哲学と化してしまいます。私の講演会でも「ブッダという人は、宗教ではなくて、哲学を説いたのですよね」と、念を押しに来る方がいます。そもそも宗教というのは、思想や哲学でカバーすることができないものを扱っているはずです。
仏教が思想や哲学と化してしまうと、身体性が排除されてしまいます。それは修行が排除されることでもあります。修行しなければ、当然ながら、人を救う力が弱体化します。頭だけで理解した気になり、体験や体感、身体の変化によって心を変えていくといった部分が見失われていきます。
そもそもブッダは、最高真理は言葉では伝えられないと述べています。仏教がブッダの時代から、行の宗教、すなわち修行抜きでは成り立ちえない宗教であったという歴史的な事実を思い起こす必要があるのです。
また、内面化は、一面では単純化することでもあります。多様性の排除ともいえます。「シンプル・イズ・ベスト」という言葉があります。真理はシンプルなものであるといわれて、私たちは何となくそれは本当であると思い込んでいます。しかし、私は真理がシンプルであるというのはあやしいと思っています。物事は複雑であり、複雑なままに受け入れていくことで、真理に到達するのだと思っています。
 
死後世界と霊魂
 最後の大きな課題は「死後世界と霊魂」です。日本仏教を再興するうえで、解決すべき課題はいくつもありますが、できるだけ早く解決しておかなければならない課題が死後世界と霊魂にほかなりません。
実は伝統宗派が霊魂に対して曖昧な態度を取り続けるのは理由があります。1930年、昭和の初めの頃、日本の仏教学をリードする立場にあった東京大学印度哲学科の宇井伯寿教授が「ブッダは無我を説いた」と主張されたからです。我とは霊魂を意味します。つまり「無我説」は霊魂の否定です。以来、日本の仏教学では「ブッダは霊魂の存在を否定した」という学説が主流になりました。
ただし、現在の印度仏教学の研究では、無我説だけが「仏説」であるという主張はされなくなっています。無我説が主流になる以前の日本仏教はずっと霊魂実在論でした。平安時代に極楽往生を願う源信が記した『二十五三昧起請』には、極楽浄土に行く主体は霊魂であると書かれています。しかも亡くなった人の霊魂はそのままでは極楽浄土に行けず、光明真言によって清められてはじめて、霊魂は極楽浄土に旅立つことができると説かれています。
こうした考えや感性は、多くの日本人にとって、ずっと常識であったと思います。江戸時代に記された、さまざまな宗派の臨終行儀においても、人の息が絶えたとしても霊魂はすぐそばにいるから、おろそかにするなと書かれています。
このように、霊魂の存在は日本仏教の常識でしたが、日本が近代化するなかで、霊魂や死後の世界は思想化や哲学化するには差し障りがあったのか、無我説が主流となるとともに、ほとんどの宗派はいつの間にか語るのをやめてしまいました。現時点で、死後における霊魂の存在を、宗派として明確に認めているのは、日蓮宗と高野山真言宗のみという調査報告もあります。
私は、宗教が宗教たるためには、死後世界と霊魂の存在を認めないと成り立たないと思います。現代人は科学的に証明されないものは信じませんが、科学はある領域のなかでのみ成り立ちます。死後の世界や霊魂の存在は科学では永遠に証明されないかもしれないのです。死後の世界や霊魂は信仰の世界で語られる対象です。宗教は「信」から始まります。人は信じることによって救われていきます。そのための必須条件として、日本仏教は死後世界や霊魂について、あいまいにせずに明確に語る義務があると思います。
 
弘法大師空海の教えこそ難問解決の指針
 日本仏教史上、最も明確に、個人の精神的救済と社会的な規範の提供を両立させたのは、弘法大師空海の教えだと思います。私は21世紀型宗教として
①参加型の宗教②実践型の宗教③心と体の宗教④自然とかかわる宗教⑤包容力のある宗教⑥女性の視点・考え方を尊重する宗教の6条件を備えていることが大切であると考えています。弘法大師空海の教えはこの6条件を満たしています。これらの6条件を満たしているほかにも、真言密教には芸術の領域における膨大な蓄積があります。
こうして見ると、弘法大師の教え、真言密教が現代にとって極めて重要であることがおのずから明らかです。もし真言密教に課題があるとすれば、これほどの豊富な蓄積を十分に使い切れていないという点です。真言密教にかかわる方々には、修行に熱心に取り組み、言葉で表現できない仏教の智恵を、曼荼羅などを介して、明らかにしていただければと願っています。
 最後にもう一度、日本仏教を再興するための課題をまとめますと、①近代化の功罪をきちんと認識して、行き過ぎた内面化を是正すること。②具体的には葬儀や祈願といった生活仏教をもう一度高く評価すること。③死後世界や霊魂について否定するのではなく、認めてきちんと説明をしていくこと。この3つを課題として、実践していただければ、日本仏教、真言密教の再興は充分に可能だと考えています。

 
 
(構成/智山教化センター)