教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第2回 愛宕薬師フォーラム平成22年12月3日 別院真福寺

スピリチュアル・ライフのすすめ ―仏教の修行を科学する

講師:慶應義塾大学文学部准教授  樫尾 直樹 先生

平成22年12月3日(金)別院真福寺地下講堂において、第2回愛宕薬師フォーラムを開催しました。
今回は、日々瞑想行を実践し、現代社会の霊性やスピリチュアリティの可能性を探求されている樫尾直樹先生(慶應義塾大学文学部准教授)をお迎えして、仏教の修行、とりわけ阿字観を含めた瞑想行についてお話いただきました。先生の授業は、SAPIO編集部編「マイケル・サンデルが誘う"日本の白熱教室"へようこそ」(小学館)にも紹介されています。
当日会場では、約80名の参加者が先生自身の体験も踏まえた熱い語りに耳を傾けておりました。
以下は、講演の要約です。

○私のスピリチュアリティ・ライフ

宗教学の研究を長年続けていますが、瞑想などの行を実際に始めたのは去年からです。「仏教」や「道教」「キリスト教」の研究をするため、韓国に去年1年間滞在している間に、坐禅やヨーガを始めました。こうした修行の成果を挙げますと、禁煙やダイエットに成功し、仕事も捗るようになりました。また、瞑想をやっていると何事にも動じなくなって人間関係がよくなり、自己実現ができます。
では毎日どのような修行、エクササイズをしているのかといいますと、まず「祈り」から始め、ヨーガの基本的な「簡易体操」をします。そして片方の鼻を押さえながら呼吸する「片鼻呼吸法」や「交互呼吸法」をします。次に「坐禅」を行った後、ゆっくり歩く「経行(きんひん)」をして、腕立て伏せや腹筋などの「筋トレ」をします。そして上座部仏教の瞑想法である「ヴィパッサナー瞑想」を行います。これはラベリングといって、例えば歩く時、"足がついた" "足が離れた"と、自分の行っている動作を意識し、よく観察する瞑想です。そして夜寝る前には、横になって、体に光と闇が交互に押し寄せるように感じる「ゴールデンライト瞑想(以下GL瞑想)」をやります。私たちは普段寝ている時にも体に力が入っているのですが、このGL瞑想を行うと力が抜けてぐっすり眠ることができます。

○瞑想修行の原理

近年スピリチュアルという言葉がちょっとしたブームになっています。霊能者などが霊を見る、といったイメージもありますが、今回お話しするスピリチュアルとは、瞑想とか身体実践を通じて、神仏や大自然や、いのちといった、目に見えない存在の力に影響を受けている意識のことです。いいかえますと、普通の心の状態を超えた高次の意識のあり方のことで、「坐禅」や「阿字観」などの瞑想修行をして、普通の心の状態を超えた意識になる、そういう状態を「スピリチュアル」もしくは「スピリチュアリティ」といっています。
では、なぜ瞑想修行をすると、普段の心の状態ではない意識状態になるのでしょうか。坐禅や阿字観では、足を組み、さまざまなヨーガのポーズをとり、体をいつもとは違った状態にします。また坐禅でしたら、自分の前方の床を半眼で見て集中したり、ヴィパッサナー瞑想でしたら、目を閉じてゆっくり深い呼吸をする時に、お腹が出たり凹んだりするのを観察します。
体をいつもとは違った状態にして、一つのことをじっくりと観察すると、自身の心と体を見る自分が生まれてきます。瞑想を行うことで、修行を積んでいる宗教者には、神仏と一体化する、あるいは神仏と自分は実はひとつであるということがわかるといいます。これが様々な宗教にある神秘体験であり、「悟る」という一番究極的な部分にふれるところです。ですから、宗教者は神や仏といった、見えない力に生かされて存在しているということがわかってくるのです。

通常の表層意識を、より高次の自分が見ているという状態が出てくる、これが瞑想の一番基本的な原理です。

○スピリチュアリティ原理

私たちの普段の生活は、外部からの刺激とそれに対する反応を繰り返しながら生きています。しかし瞑想を行うと、その表層の刺激と反応のサイクルがシャットアウトされて、深層意識が働き始めます。そして表層意識が深層意識に影響を与えなくなり、自分の心の深い奥底のところでリラックスすることができます。これが動じないということです。そして毎日瞑想を行ってこのような意識が深まってくると、自分と他者を区別する気持ちがだんだんと低下してきます。なぜなら元々人間は、深層意識のレベルでは、皆が一体だからです。私たち人間は、宇宙の始まりから様々なかたちに展開されて今の姿になったわけですが、始まりを考えれば元々は同じものです。ですから瞑想をやると人と人との間に一体感が生まれてくるのです。宗教は、そのことを修行の中

で実感としてわからせようとしています。

このように意識がより深化し、神仏と一体化する、あるいは元から一体であることがわかるのは、「身体」「心」「魂」「霊」の中で一番高い霊の次元の話です。毎日きっちり修行されている宗教者でないと、こうした次元になるのはなかなか難しいと思いますが、このように心から魂、魂から霊へとより高次の自分が生まれて、現在の自分を引き上げていく、このことを私はスピリチュアリティ原理(以下スピ原理)と呼んでいます。
自分の姿を自分が見るという初期の段階では、仏や神と出会ったり、一体化したりしているわけではなく、自分の意識―心のあり方を観察しています。つまり意識していることを意識している。瞑想とは一言でいえば意識化することなのです。ですから、より宗教的な修行を長年続けていけば、神仏に出会い、神仏と一体化している、あるいは元から神仏と一つであるという意識が生まれてくるのです。
こうしたスピ原理というのは、実は瞑想だけではありません。例えば毎朝神仏にお祈りをする時、ずっと祈っていると、その祈りの気持ち自体が消え、無心で祈っている自分を見る自分が生まれてきます。これも同じ原理です。集中し、意識が消えるという意味では、雑巾がけのような特定の反復運動を行ったり、絵画

や書道といった芸術活動を行う時でもそうですが、型に自分をはめていく合気道や空手などの武道は、スピ原理が発揮できる顕著な例です。特に日本の武道は神仏に向き合うという機能があり、礼儀正しく、利他的になれるとともに、体も鍛えられて、頭もよくなります。このように瞑想だけでなく、様々なところでスピ原理が発揮できます。

○仏教修行の瞑想行

日本を代表する哲学者の一人である湯浅泰雄先生は、『身体論』という本で、瞑想行の原理とは、今の自分を見る高次の自分が生まれてくるというスピ原理に貫かれていて、それはあらゆる伝統宗教にあるが、とりわけ仏教が最も優れており、仏教こそこうした修行―瞑想行を徹底的に開発し、且つ意識のあり方を徹底的に考えてきた、と述べています。 

それでは、このスピ原理を基に、仏教瞑想について考えていきたいと思います。 
仏教瞑想は、元々はインドで、ヒンズー教とヨーガと仏教がそれぞれ刺激しあいながら開発されてきたものです。湯浅先生はこうした仏教瞑想を「静止的瞑想」と「運動的瞑想」の二つに分けています。静止的瞑想とは「止観」「坐禅」、真言宗の「阿息観」「阿字観」、そして「念仏」や「題目」を唱えることなどです。 
運動的瞑想は、天台の南無阿弥陀仏を唱えながらずっと九十日間お堂の周囲を廻り続けるものなどです。 
ちなみに、ヴィパッサナー瞑想には立つ瞑想というのがあります。例えば電車の中で、吊革に掴まり目をつむりながら、自分の足の裏のつま先や踵に圧力がかかるのを観察します。また、座っている時には、呼吸に着目する瞑想があります。こうした瞑想をすれば、毎日電車に乗っているのが楽しくなりますので、是非やってみて下さい。 
では、坐禅とヴィパッサナー瞑想と阿字観について比較してみたいと思います。坐禅は前方に意識を集中させ、意識が深くなってくると、前を見ている自分を見ている自分が生まれてきます。そしてさらに深くなっていくと、全体を見ている自分が生まれてきます。 
一方、ヴィパッサナー瞑想は、呼吸や歩くなどの行動に集中して、自己を見ます。この瞑想も坐禅同様自分を観察します。すると高次の自己が生まれ、今自分のやっている行為から自由になれて、影響を受けなくなるのです。 
唯識や『大乗起信論』に基づいた、井筒俊彦先生の意識モデルによりますと、私たちの意識は「表層意識」「マナ識」「アラヤ識」「無意識」に分けられます。坐禅やヴィパッサナー瞑想は、「マナ識」で自分と他人を区別しない意識が生まれてきて、「アラヤ識」までいくと、生きているものと生きていないものとが一体になり、さらにそれを超えて一番深いところにいくわけです。 
このように坐禅やヴィパッサナー瞑想は、自分の目の前で見えている視界とか呼吸といった表層意識と切り離して、ずっと深いところを重視しているので、見ている対象や、呼吸そのものには意味を持ちません。坐禅では、霊的なものをみたり、神仏と一体になったような幻覚が見えたりしますが、それを魔境といって重視しません。つまりマナ識のレベルを大事にしないところに特徴があります。 
これに対して阿字観は、月輪や阿字、蓮華の台座といった一定のイメージを心に念じ続けます。集中して自己を観察するという点では、坐禅やヴィパッサナー瞑想と同じですが、月や阿字といったイメージを自分の身体内部に投射し刻印して、そのイメージを展開していきます。これは、マナ識のイメージの世界を大事にするということです。この時展開していくイメージである「阿字」はただの象徴ではなく、大日如来であり、宇宙であり、それがすなわち自分であり、実在する命です。イメージの世界を禅宗のように魔境として無視しないで、真正面から向き合い超えていこうとする、この点が他の瞑想と違うところです。

○日本のスピ元祖―空海

空海は、古代的な感性を持ち、インド的なもの、「梵我一如」すなわち宇宙の神と自分は一つであるということを日本で初めて展開したことから、空海によって初めて日本仏教が生まれたといえます。宮坂宥勝先生は、密教でいう三密を、後の鎌倉仏教の諸宗が部分的に取り入れたと見ています。「身密」は道元の「只管打座」。「口密」は「専修念仏」の法然、「唱題成仏」の日蓮。「意密」は「信心為本」の親鸞、「見性成仏」の栄西に引き継がれたというのです。
こうしたことを前提として、真言密教の特徴をスピ原理に則してまとめると、阿字観や五相成身観の実践にあります。真言密教の三密は、真言だけ唱えるとか座るだけでなく、すべて一緒になった統合的な実践であるということです。阿字観などの実修で生じる無意識のエネルギーを上手に観察して、それを応用して悟りに一番早く到達する、これが即身成仏であると思います。
『十住心論』などを読んで思うことは、他の宗教では、この世は空であるが空ではないというように、レトリックの世界になっていて、本当のところはどうなのか、みんなわからないのですが、真言宗は法身説法なので、究極的な真理の世界を語ることもでき、実感することもできるのです。神仏、宇宙と私たちは元々一つということがわかればいいということです。しかしそれがわかるためには、やはり修行をしなければなりません。
また阿字観は、瞑想状態に入っていて、意識は覚醒した中で、自分が宇宙と一体化しているということを体験できることに特徴があります。目覚めたままでマナ識を活用して、宇宙、仏、如来をイメージして一体化する、あるいは一体化した状態を想像して内面化する、あるいは一体であることに直接気づくという方法です。私はキリスト教系のものも含め様々な宗教の瞑想をやっていますが、阿字観が悟りに向かって最速であると感じました。こうしたところが、真言密教のスピリチュアルな特徴であるというように思います。

○真言密教に対する疑問点

しかし、真言密教に対していくつかの疑問点もあります。現在、道教瞑想の気修練をやっているのですが、『十住心論』によると、道教は第三住心の嬰童無畏心のレベルで、上座部仏教より低いといいます。私のやっている気修練は、お臍の下にある下丹田で溜めたエネルギーを、頭頂部から出して、ある実体を持った自分の分身であるという認識を持って、天と一体化することを目標とします。これはイメージの世界を気エネルギーに変える実践だと私は解釈していますが、この道教瞑想がどうして低いのか疑問に思っています。
一方、阿字観という素晴らしい瞑想行は一般的に知られていません。それは印を結ぶとか、真言や梵字といったものが宇宙的な光景を表出しているということが、現代人にはなかなかわかりにくいからだと思います。そこを一般の人にどうやって理解してもらったらいいのか。
また空海の持っている古代的な感性、つまり、私たちはこの宇宙の中に生かされていて、根本的に一つであるというダイナミックな考え方は、現代人はいくら瞑想しても実感しにくく、そういう古代的な感性というものを、どうやって我々が回復していくということも問われていると感じました。
さらに、一般の信徒はどうやって曼荼羅を活用すればいいのか、また阿字観を中心とする瞑想行が、どんな利他的な活動に繋がっていくのか、そのようなことに疑問が生じます。

○真言宗版スピリチュアル・ライフのすすめ

阿字観等の真言密教の実践にはこの上ないクオリティがあると思っています。別院真福寺の阿字観会では、ヨーガから学ばれた「清浄体操」、『智山勤行式』をお唱えしての祈りの後に阿字観を実修していますが、スピリチュアル・ライフということでは、いつ、どこでも瞑想ができる環境が理想です。そこで阿字観のメニューにヴィパッサナー瞑想、さらに筋トレやGL瞑想を日々の実践に加えていくとよいと思います。阿字観は魂のレベルですが、筋トレやGL瞑想などは体のレベルで、ヴィパッサナー瞑想は心のレベルです。こうしたメニューを真言宗版スピリチュアル・ライフとして、僭越ながら提案をさせていただきたいと思います。

(構成/智山教化センター)