教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第11回 愛宕薬師フォーラム平成25年2月8日 別院真福寺

ひとはなぜお葬式をするのだろうか

講師:国立歴史民俗博物館研究部民俗系准教授  山田 慎也 先生

変容する葬儀

 まず、1990年代から現在までの葬儀の変容をざっと押さえておきましょう。
 日本においてバブル経済崩壊後の一九九四年以降、葬儀は小規模化してきました。その象徴のひとつが家族葬です。家族葬は従来あった密葬と形態は同様ですが、「家族葬」というネーミングが持つイメージに温かみがあり、急速に需要が増えました。その後、「一日葬儀」が登場し、さらに一切の儀礼を排除した「直葬」が出現します。
そして2000年以降になると孤独死が注目されてきます。この孤独死は、社会の個人化が影響しているもので、葬儀の個人化、縮小化を招いているといわれます。また、亡くなっていく多くの人々は、病院で死を迎え、葬儀業者など外部の専門家に依存して、死のプロセスが進んでいくケースがほとんどでしょう。さらには親族がいたとしても、専門家任せの状況や葬儀を支える人が縮小していくこと、そして意識の変容により、葬儀の必要性にすら疑問を感じる層が増えてきています。
しかし、長い歴史の中で、非常時を除いて葬儀のない文化はありません。これが人間と動物の違いでしょう。つまり人間は死を慮(おもんばか)ることができるのです。とはいえ、自分の死を自分では見届ける体験ができないので、他者の死から自身の死を想像して死という概念を捉えていきます。「死を知らない」ことはある意味、社会の死であるといえ、また宗教の発生は、死の意味づけにあるともいわれます。このように死に対する意味づけをし、死を受けとめるための儀式が葬儀であり、行為が儀礼です。

葬儀の性質

葬儀の性質は、大きく三つに分けて捉えられるのではないかと私は考えます。
①物理的変換 動かなくなった遺体を何らかの形で処置・対応しなければばらない物理的変換。たとえば土葬や火葬など。
②文化的変換 遺体の処置だけではなく死の意味づけをする。亡くなった人が新たな世界で生きていると、文化的に新たに死者を位置づけていく文化的変換。たとえば「おじいちゃんはお星さまになった」など。
③社会的変換 死者は父であるとか社長であるといった社会的役割を果たせなくなるので、葬儀を通して死者の社会的な役割を再分配する社会的変換。たとえば喪主になることや位牌を持つことで、会葬者へ、誰が後継者なのかを披露する場でもあるなど。
このように①②③の側面を含めて、総合的に死を人々の中に位置づけていくことが葬儀であり、その機能が葬儀にはあるわけです。

送る葬列と葬祭業

「葬儀の原型とはなんだろう」と考えた場合、遺体をどこかに運び出すことに葬儀の原型があるのではないかと考えます。しかし、ただ単に遺体を墓地等へ移動するのみではなく、そこに意味づけが必要になったと私は解釈しています。たとえば、この世からあの世にいくという意味づけをする際に、お別れの言葉を捧げたり、埋葬の際の儀礼等が整理されて葬送儀礼になっていったと理解します。仏式の葬儀は授戒をし、仏弟子にしてあの世に送り出す儀礼をします。これは基本的に亡くなった人を仏にしていくプロセスに重ねているわけです。
江戸時代から地方によっては戦後まで多くの場合、自宅で通夜・出棺の儀式を行い、墓地に向かって葬列を組み、改めて引導作法をするという葬儀プロセスが全国で行われていました。自宅からの移動を儀礼化したのが葬列です。葬列は現在ではほとんど見られませんが、葬列中心の葬儀が長い時代続き、東京においては大正期まで行われていました。

最近の研究でわかってきたことですが、近世の早い段階で、葬列を取り扱う業者、いまの葬儀業の原型が誕生していることが注目されています。17世紀後半に様々な職業について描かれた『人倫訓蒙図彙(じんりんくんもうずい)』の中に龕師(かんし)(葬具業者)が登場します。この龕師は葬列に必要な道具を供給していました。
また、遺体を納める「輿(こし)」や「天蓋(てんがい)」、「提灯(ちょうちん)」、「龍頭(りゅうず)」などの道具が江戸時代半ばから使われ始めます。江戸時代後半になると、このような葬具業者の利用は豊かな人に限らず一般的に多くの人々に利用されるようになりました。
江戸時代は、人々の生活が豊かになり、葬儀が派手になりましたが、身分による葬儀の統制がなされ、それを取り締まる法令が発令されていました。社会的に葬儀が派手になると批判され規模が小さくなり、再び派手になることを繰り返しています。そして長い時代に目を向けると人々は葬儀を「派手にやりたい。立派にやりたい」と希望しています。
そして明治時代になると葬列の葬儀がいちばん派手になり、特に都市を中心に葬列の葬具ばかりではなく、葬列を組む専門の人足も出てきます。明治時代にはまだ祭壇は使われず、葬列が葬儀のランクを決めるものでした。たとえば寝棺が上層の人、座棺が庶民というように、葬列は社会階層と密接に結びつき葬儀の儀礼の中で葬列が重視されていたのです。そして明治20年代になると、葬列専門の人足の手配と葬具貸物業が合体し、サービス業的要素を持つ葬儀社が誕生します。これによって従来よりも費用が安く済むようになり、庶民の葬列も派手になっていきました。 

 この写真は大正期に、現在の東京北区にあった旧家の葬列を撮ったものです。当時の特徴として葬列の中に看護師がみられます。これは家政看護師を雇っていた家の葬列に看護師が参列したことが始まりです。これが形式化して、葬列のためだけに看護師を配置することで、雇えるだけの豊かな家であるというイメージができ上がり一種のステータスになりました。そこで葬列専門の看護師役が生まれたり、また参列者全員に折詰の弁当を用意しなくてはならなかったりと、葬列が社会的な表現の場となる一方、費用は多額になっていき、中産層の家で2年のうちに両親が亡くなると身代が傾くといわれるほどでした。こうした葬列は明治から大正時代まで東京でも当たり前のように行なわれてきましたが、徐々に葬列は無駄であると批判を浴びるようになり、告別式が誕生してきます。

告別式の成立と肥大化

 告別式は明治34年に思想家・中江(なかえ)兆(ちょう)民(みん)の葬儀の際に初めて行われた儀礼です。兆民は無神無霊魂説を唱え、「葬儀は要らない」と遺言しました。兆民の死後、葬儀はどうなるのか世間の注目を浴びつつ、葬列や読経などの宗教的要素が排除された死者への哀悼と告別が、式の中心となる無宗教の告別式が行われました。この告別式の形態は、弁護士などのインテリ層へと普及し、大正期には更に変質し、会葬者に焼香や玉串を捧げる時間を式中で別に設け、弔意を表する仏式告別式・神式告別式が現れ、モダンなやり方として告別式が一般化します。
そして大正末期から昭和初期には、交通事情や会葬者の広がりなどの変化、移動の合理化と複合的な要因で葬列が廃止され、自宅告別式が中心となってきます。葬列がなくなり自宅告別式が広がり始めると、今度は葬列に代わり社会的な成功や威信を表現するための装置、つまり見せることを一つの目的とする飾りとして葬儀祭壇が出現し注目されます。昭和初期の段階で、すでに祭壇の段数が多いほど葬儀のランクが上と位置づけられ、これが白布祭壇の始まりです。そして昭和初期なると告別式は民衆に浸透し、地方にも普及していきます。
さきほども触れましたが、告別式は焼香などで弔意を表するものの、もともとは無宗教的な儀礼がベースです。ですから告別式は、現世の人々の別れが儀礼の中心で、あくまでも世俗的な儀礼です。このような世俗的な儀礼がさらに強化されて世間に浸透していくもう一つの流れがありました。それが公の葬儀(公葬)の問題です。

公葬と死者顕彰
ヨーロッパを起源とする国葬という概念があります。国家のために戦争などで亡くなった指導的な立場の人などに国家が葬儀を出すものです。これは国家のために貢献したこと、つまり国家が葬儀を主催することで現世において死者の功績・顕彰を意味づけていくものでもあります。近代になると日本でも国葬が導入されました。日本初の国葬は明治17年、岩倉具視の葬儀です。しかし、国葬を頻繁にしては価値がなくなるので限定され、戦前までの国葬は15件のみです。
ところが日清・日露戦争では多くの戦死者が出ました。その時に国はどうしたかといいますと、市町村が葬儀を執り行う公葬をしました。その公葬は弔辞が重視され、戦死者が称えられ、功績が強調されるものでした。公葬が一因となり、葬儀は生前の功績を称える死者顕彰の側面を持ち、この動きは一般の人の葬儀にも及ぶことになり、葬儀が世俗のものと理解されてくる流れができてきます。
このように戦前の段階ですでに告別式が誕生し、また告別式の意識がなくても戦争などを挟み、葬儀が世俗的な顕彰の場として位置づけられるようになりました。これらのことから葬儀の意味は、来世よりも現世での死者個人の功績を称え、現世で生の決着をするという方向づけがされ、変容して戦後へと突入します。

戦後の葬儀の変化

戦後に旧民法の家(いえ)制度が廃止され、1960年代以降の高度経済成長期になると、イエではなく家族が一つの括(くく)りという意識が強くなりました。とはいえ、葬儀に関しては、変質しつつも従来のイエ的な葬儀が1980年代まで続きます。
しかし、さまざまな社会環境や意識の変化により従来の葬儀の形態を維持することが難しくなります。その変化を①物理的変換・②文化的変換・③社会的変換の面からみましょう。
 ①土葬から火葬へ移り、火葬の普及率の上昇が大きな変化です。火葬率は1900年に29.2%、1940年に55.7%、1980年には91.1% と大きく変化し現在は99.9%です。これは葬儀過程の変化に繋がり、焼骨にしてから葬儀をする骨葬なども出てきました。
 ②葬列によって、寺院・墓地まで死出の旅路の行為を共通体験することで死後の世界へ送り出すことを理解できました。しかし告別式では、共通体験ができないので死の理解が単に別れで、死後の世界は個別の理解となりました。
 また従来のイエ的な発想では、死者は先祖として位置づけられていたのが、身近な家族の死へと変わっていきます。つまり、自分を中心にした身近な家族(現実に交流があった人)のみが死者のイメージとなる私的情愛へ意識の変化がみられるようになりました。
 ③かつて葬儀の取り仕切りは、近隣の人々が実際的な担い手でした。しかし、会社勤務などの給与所得者が増え、近隣の葬儀のために休みを取ることが難しくなり、葬儀業者の金銭によるサービスが提供されると、近隣に気を遣うよりも葬儀社の方が楽という意識から近隣の人々の葬儀への関与は葬儀の主体側の存在から参列者側になっていきます。
 このような変化の中でも、なんとか1980年代までは、明治以降の従来のイエ的な葬儀が表面的に続けられました。

死の現在

 ところが1990年代以降になると、イエ的な葬儀ができなくなってきます。その要因は少子化、親族の減少などです。そして単身世帯・夫婦だけの世帯が増え、後継者がいても迷惑をかけたくない意識が強くなったことにあります。このように個人化する状況で、死の捉え方は、家族の死から私(個人)の死となり、個々人が否応なく死後のことを考える必要が出てきました。
 葬儀は招待制ではなく、「行かなくはいけない」という意識のもとに人が集まるシステムでした。しかし家族葬が増え、人が集まらなくなっています。これでは葬儀において、人の死に関わる機会が減少し、葬儀を通し死者と自分との新たな関係を結べないのです。人は抽象的思考ができるからこそ、他の生物には不可能な死者を思い遣(や)ることができます。いい換えるならば、これが人間らしさともいえるでしょう。しかし現状では、その人間らしさが脅(おびや)かされています。

ゆるやかな忘却へ

 多くの人は、死後瞬時に自分の存在を忘れ去られるのは恐怖です。そのために生きてきた証(あかし)を残そうとします。それは作品であったり、あの世で生きているというイメージであったり、何らかのかたちです。一方で残された人はいつまでも故人のことを憶えていたら大変で立ち直れません。そういった意味でも葬儀や年忌法要は機能的で、故人の存在は「ゆるやかに消えて」ゆき、遺族の記憶からは「ゆるやかに消す」ことができるのです。
 個人化が進む現在、生前の人との繋がりが自分の死後までイメージできるか、別のいい方をすれば、自分なりの死生観が必要となっていると感じます。それには生きている間に生活延長線上のコミュニティにおいて人間関係を構築することで糸口が掴めるのではないでしょうか。
 具体的には繋がりのあった人を見送り、そして自分も同じように見送られるということです。いわゆる安心の獲得です。

(構成/智山教化センター)