教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第25回 愛宕薬師フォーラム平成28年9月7日 別院真福寺

こころは無限の世界を画(えが)く―華厳経は現代に何を語るのか―

講師:東京大学名誉教授 文学博士 木村 清孝 先生

『華厳経』の成り立ち
 日本において『華厳経』を読誦することは、現在ほとんど行われておりません。わずかに日本の華厳宗の大本山である奈良の東大寺で、儀式の中で『華厳経』の一部である「唯心偈(ゆいしんげ)」をお唱えしているくらいです。そういう意味では、あまり知られていないお経ではありますが、大乗仏教の歴史や思想を見ていく上で、とても大事なお経なのです。
 大乗仏教は、紀元前後から起こってきた新しい仏教運動であり、自らが正しい修行をして仏になっていくということだけではなくて、特に強調されたのが、生きとし生ける者すべてが安らぎの世界へ入っていく、という考え方でした。
 『華厳経』はそうした大乗仏教運動が起こってから数百年の間に、後述する意図のもとに、インド各地で成立したいくつかの大乗経典を集めて、それらを理論的にまとめあげる過程で形作られ、今から千六百年ほど前、四世紀の末頃に成立したと考えられます。
 
 『華厳経』がまとめられた意図
 『華厳経』がまとめられたのは、私たち自身が菩薩であり、その菩薩として生きる道を明確にしようという意図によるものです。
 『華厳経』は『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』というのが正式名称ですが、現在残っている完本の『華厳経』には四種類があります。ここではそのうちの包括的なもの三つをご紹介します。
 一つは『六十華厳』とよばれる全六十巻の漢訳本、二つ目に『八十華厳』と呼ばれる全八十巻の漢訳本、そして三つ目にチベット語訳の『蔵訳華厳経』です。
 この三つの『華厳経』を横に並べて章題を比べてみますと、『六十華厳』にいくつかの章が加わって『八十華厳』の章立てがなされています。その『八十華厳』にいくつかの章が加わって『蔵訳華厳経』ができています。ですから、もともとの『華厳経』に一番近いものは『六十華厳』ということになります。
 さて、この『六十華厳』の内容を見ていきますと、釈尊がおられる場面が八つあります。はじめの場面は、マガダ国の寂滅道場会(じゃくめつどうじょうえ)、そして普光法堂会(ふこうほうどうえ)です。
 その後は章を進めるに従って、忉利天宮会(とうりてんぐうえ)、夜摩天宮会(やまてんぐうえ)、兜率天宮会(とそつてんぐうえ)、他化天宮会(たけてんぐうえ)と、釈尊の所在が、天の世界へ、上へ上へと動いていきます。そして最後に釈尊は再びマガダ国の普光法堂会(ふこうほうどうえ)、逝多園林会(せいたおんりんえ)というように、私たちと同じ世界に戻ってこられます。
 仏教では天の世界も迷いの世界であり、欲界の一部と考えます。ですからさとりを開かれた釈尊によるこの天の世界と私たちの世界との往還という描き方は、欲望の世界全体を舞台としながら、釈尊の精神的内実のありようが変化するということを暗示しているのかもしれません。
 全体としては、上に述べた釈尊の会座の移動を背景におきながら、菩薩がさとりに向かう正しい心、「菩提心」を起こして、着実に修行を深めていって、最後に仏と成る約束を得るというものです。ですから、私たちが釈尊のさとりを追体験していく、そのことを目指して『華厳経』はまとめられたのではないかと思います。 

 華厳思想の広がり
 『華厳経』が中国に伝えられたのは五世紀の初め頃です。当時の中国には、西域からやって来る「訳経僧(やくきょうそう)」や、あるいは中国から西域に仏教を求めた「求法僧(ぐほうそう)」によって、多くの経典や論書が伝えられました。彼らは、まさに法のためには命を投げ出す「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の決意をもって仏教を伝えました。そのおかげで現代の私たちも仏の教えに触れられるということを忘れてはいけないでしょう。
 ともあれ中国の場合、『華厳経』だけでなく、大乗仏教以前の伝統仏教の経典類や、さまざまな大乗経典、論書や注釈書が成立の順序とあまり関係なく伝えられたため、中国の人たちは仏教の経典が、いつごろ、どういう人たちのために説かれたのかを、釈尊の「説法の遍歴」に応じて、それぞれ整理するということを行いました。
 その中で『華厳経』は、釈尊が悟りを開かれた直後に明らかにされた教えとされ、大乗の中でも特別に優れた教えであるという解釈がなされました。
 『華厳経』は、教えそのものが大きな広がりを持っています。特に唐代の中国において、智儼(ちごん)、法蔵(ほうぞう)、澄観(ちょうかん)といった祖師たちによって『華厳経』の教えは壮大な「華厳思想」として体系化されました。そして唐代以降に発展した仏教、つまり禅や密教にも大きな影響を与えながら、中国だけでなく、朝鮮半島や日本、東アジア全体に展開していったのです。
 現代でも華厳思想は海外の研究者や仏教徒にも注目され、世界的な広がりを見せています。環境倫理学、宇宙物理学などといった分野の研究者や科学者も華厳思想に関心を持たれる方は少なくないようです。『華厳経』は現代にあっても汲み尽くせない魅力を持っているのです。
 
 「心は巧みな画師である」
   ―三界唯心の思想― 
 ここからは『華厳経』の現代的意義というテーマに沿ってお話をしたいと思います。
 『華厳経』には一番有名な教えとして「三界唯心(さんがいゆいしん)」の思想があります。
「三つの世界はただ心のみである」という意味で、「三界」とは、もともとインド的な瞑想の体験に基づいて設定されたたもので、欲界、色界、無色界のことです。これらの三層で「迷いの世界の全体」を捉え、その全体が心に基づいて存在するというわけです。
 私たちの世界の見方は、最初に客観的な世界があって、それを意識がありのままに受け止めて作り上げられているというものではありません。例えば、この世界をどう見るかと尋ねたときに、いろいろ人がいろいろな考え方を述べますよね。これはまさに「唯心」だからであり、人それぞれに心で描いている世界が違うからなのです。
 また、『華厳経』の中には「心は巧みな画師である」という言葉が出てきます。絵描きさんが絵を描くのと同じように、心も自由に世界を描き出します。だから同じものを見ても、皆それぞれ捉え方が違う、表れ方が違います。
 このことから、知覚とか認識のレベルで「対象は心が作り上げている」という言い方も可能になります。
 これは主体的にいえば、まさにそうなのです。世界は私が死んでも存在するじゃないかというかもしれませんが、私にとっての世界、私が捉えている世界は消えてしまいますよね。そういう意味では「私があって世界がある」ということもいえます。
 ともあれ、私の存在の在りようは、心にかかっているということなのです。それが生き方の中にも当然反映されてくるわけです。
 このように、『華厳経』をはじめとして、仏教には「心」がいかに大きなはたらきをもっているのかということを強く打ち出しています。
 
 星屑としての「私」―華厳の宇宙観―
 それから『華厳経』の教えで大事なことは、大きな宇宙観を持っていることです。  
 『華厳経』では私たちが生きているこの世界を「蓮華蔵世界」という浄土として捉えます。そして、私たちが生きている世界を起点として、そこから蓮華の花が開くように、宇宙を放射状に、無限大に広げていき、その先にいくつもの世界の存在を見ていこうとする描写があります。要するに私たちが生きている世界を大きな、宇宙的な場として捉えているのです。
 現代の宇宙観でも、私たちのいる銀河系宇宙は、宇宙全体の中の、ほんの一つに過ぎず、それ以外に無数の宇宙が考えられていますね。これにも似た大きなスケールの宇宙観を『華厳経』は示しています。
 私たちはややもすると、小さな方へ、小さな方へと物事を集約し、その小さな範疇の中で、正しいとか、間違っているとか、善いとか、悪いとか、美しいとか、醜いとか、考えてしまいがちです。そうではなくて、もっと広大な宇宙の中の「私」として自らを捉えるということです。
 一つの言い方をすれば・・・星屑の一片が私である。そのような「私」の捉え方ができるか、できないかで世の中の見方も、生き方も、大きく変わってくるのではないかと思います。しかもその星屑は、宇宙の一片であるけれども、確かに宇宙全体とつながっています。

 「共生」の自覚から「共成」の実践へ
 現実の世界のことに関していえば、『華厳経』は菩薩の体験として「一つのものが全てである」ということを説いています。それを「相即相入(そうそくそうにゅう)」とか「無礙(むげ)」といった言葉で表現します。
 この「相即相入」とは、本質的には「個」と「全体」が一つになっているということで、お互いに関わり合っている状態、支え合い、助け合っているものと捉えるのです。
 「無礙」というのは、あらゆる障害がないということで、「物事(ものごと)」と「物事(ものごと)」の間に、風が通うように、どこまでも通じ合う、調和している、そういう在り方です。いま私が話をして、皆さまが聴いていらっしゃるという、このような場もお互いが調和して一つになっているからこそ、しっかりした「場」として成り立っているのだと思います。
 人と人とが、言葉をとおして、態度をとおして、通い合い、調和して一体になること、そういう在り方が望ましいのではないか。そのような調和があってこそ平和とか安らぎがあるのではないでしょうか。
 また、『華厳経』では仏の目から世界を見たときに、全ての衆生には、仏と同じ正しい智慧が、もともと具わっている。そして衆生は仏になろうと決意をしたときに、実はそのまま仏になっているということが説かれています。
 『華厳経』の見方に従えば、この世界は蓮華蔵世界という「浄土」です。最初から仏であるというのであれば、私たちは何もしなくていいということになるのではないかと思われるかもしれません。しかし、それは観念的な捉え方です。  
 『華厳経』には「信はこれ道のもと、功徳の母なり」という言葉があります。ここで「道」とは悟りを意味しています。信心を起こすこと、悟りを目指す決意、すなわち発心することを大事にしています。
 一般の生活でも、「本物の決意」をするということが全てを決める大きなファクターになるように、悟りに向かおうと決意し、正しい行いをする中で、はじめて本当に生き生きとした世界が現れてくるのです。
 「錦上(きんじょう)に花を添える」という言葉があります。錦は錦のままで美しい。けれども、そこにそっと花を添えることによって、さらに全体が生き生きとしてくる。この「花を添える」ということが、まさに一人一人のあるべき行いなのではないかと思います。
 昨今よく「共生」(共に生きる)ということがいわれます。実際、人間同士も人間と自然も互いに支え合ってこそ生きられるのですし、そのことを知ることはとても大切です。しかし、私はこの言葉を「共成」(共に成す・共に成る)というあり方を提唱しています。共に手をつなぎ、善いことを行っていく、そういう在り方の中で、やがて望ましい調和する世界が実現できるのではないかと思うのです。
 この「共成」には、縁起的な人間観や世界観、さらには、先ほど話した「星屑の自覚」といったことが基本となります。そして、実際に行動していくということが求められていると思います。『華厳経』を読んで満足するだけでなく、その教えから学んだものを現実の行動に移し、協動的に調和する世界を目指して歩んでいきたいと願っています。
 
 
(構成/智山教化センター)