教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第41回 愛宕薬師フォーラム令和4年12月13日 別院真福寺

「智積院障壁画の世界」 ―桃山の息吹に触れる―

講師:日本画家 安原 成美 先生

金碧障壁画の歴史と背景

 金箔を一面に貼った上に画を描く金碧障壁画は日本独自の手法であり、世界絵画史においても特異な存在です。照明が発達した現在では、かなり派手な印象のある画ですが、その当時は天井からの照明はなく、部屋に入る明かりは、日中は自然光、夜は燭台の明かりのみです。
特に日中の光では、庭の緑や池の水面が金に映り込み、輝きに深みが増します。その場に立つと、部屋の画の輝きと庭の緑の境が薄らぎ、一体感が生まれてくる感覚に包まれます。

 一つ残念なのが、現在このような障壁画は、建物にあるものは大部分がレプリカで、本物を鑑賞できることはほとんどありません。これは文化財の保存という観点から見れば、そのまま建物に置いておくより美術館のように品質管理の行き届いている環境で保存する方が、後世に長く残せるからなのですが、特に障壁画は建物の一部になることを前提として制作されているものですので、本来なら、建物のなかに納められていなければ、その本当の価値を知ることはできません。このように、美術鑑賞と文化財の保護は、二律背反にあるのが現状です。

 智積院障壁画は、松や楓などの巨木と草花が描かれているのが特徴で、これらを何枚にもわたって大画面に描くものを「大画」(たいが)といい、この様式も日本独自のものです。この大画は狩野派四代目の狩野永徳によって生み出された絵画様式です。永徳は戦国時代から桃山時代に活躍した絵師で、時の天下人織田信長や豊臣秀吉のもとで、数多くの作品を残しました。信長のころの永徳は、「洛中洛外図屏風」など、昔ながらのオーソドックスな大和絵の技法で緻密な画を描いていました。大画様式は、その後秀吉の代になって生まれたといわれています。秀吉は大坂城、伏見城、聚楽第、方広寺など次々に大規模な建築を命じました。その障壁画を担当したのが永徳です。それらは、限られた時間のなかで膨大な数を制作しなければなりませんでした。

 永徳はこれまでの「洛中洛外図」のような、緻密な作品ではなく、代表作「唐獅子図」のように、荒々しい筆さばきや大胆な構成で描く方法を開発します。この手法により、さらに画に躍動感が生まれたのです。永徳の素晴らしいところは、さまざまな制約を受けながらも、それを肯定的に受け止めて、建物の一部として映える絵画様式に落とし込んだところにあります。このように大画様式は、安土桃山時代という自由闊達で流動的な歴史の流れのなかで培われていきました。

 秀吉の要望に応え続けるため、この時期狩野派の工房は多忙を極めていました。昼も夜もなく制作に打ち込んだ結果、狩野永徳は四十八歳で急逝してしまいます。これは現在でいう過労死であったといわれています。このように、永徳は膨大な数の作品を制作しましたが、大坂城など多くの建物は失われており、残念ながらその作品もほとんど残っていません。

 

智積院障壁画について

 障壁画は、もとは祥雲寺の客殿障壁画として描かれました。制作したのは長谷川等伯とその一門です。

 祥雲寺は、三歳で亡くなった豊臣秀吉の息子鶴松の菩提を弔うために創建されました。祥雲寺で鶴松の三回忌法要が一五九三年に営まれており、その頃には障壁画も完成していたと思われます。これまで障壁画は狩野派の独占状態でしたが、鶴松が亡くなる一年前の一五九〇年に、狩野派棟梁の永徳が急逝して一門が混乱し、その勢いが衰えていたこともあり、長谷川一門がその制作に滑り込むことができたようです。

 長谷川等伯の障壁画は、狩野永徳の技法をさらに発展させました。永徳の障壁画と等伯の障壁画を並べて比較すると、巨木の枝ぶりなどは類似性を感じますが、等伯の画にはさらにそこに大和絵の緻密さが加えられており、より完成度の高い作品になっています。等伯は、大画様式の障壁画の特徴である力強さに、さらに華やかな色彩を加えた壮大な世界を生み出しました。

 祥雲寺は豊臣政権滅亡後、しばらく無住となりましたが、一六一五年に徳川家康から祥雲寺の寺地と建物を譲り受け智積院となりました。その際、祥雲寺障壁画も智積院障壁画として存続しました。一六八二年の火災では、建物はほとんど焼失してしまいましたが、障壁画は大半が運び出され、焼失を免れました。

 運び出された障壁画は襖からはがされ、長い間長櫃に丸めて納められていましたが、一八二七年に智積院の伽藍が再建されると、その画は建物に転用されました。その後も障壁画は、度重なる盗難や火災などに遭いその一部を失います。昭和二十二年の火災でも、多くの建物が焼けましたが、僧侶以外にも京都国立博物館の職員が駆けつけて、障壁画が運び出されました。しかし、宸殿の枇杷図や竹図などが焼失してしまいます。

 そして昭和二十七年、智積院障壁画は新国宝に指定されました。何度も災難に見舞われましたが、大小四十七面にも及ぶ画が現存しています。

 安土・桃山時代の障壁画というのは、時代の動乱のなかで建物とともにそのほとんどは失われましたが、このようにまとまった形で残されているということは奇跡的なことであり、これは智積院の方々や京都の人々の尽力の賜物です。

 

往時の障壁画について

 この長谷川等伯一門の障壁画は、「楓図」「桜図」「松に立葵図」「松に秋草図」「松に黄蜀葵及菊図」「雪松図」が今に伝わっています。また宸殿の違棚には「楓図」と「松に黄蜀葵及菊図」の一部が切り貼りされて使われています。

 まず「楓図」ですが、これは等伯自らが描いたもので、楓の大木の枝ぶりや草花の巧みな表現により、自然の息吹にあふれる作品になっています。よく見ると、この画には不自然な部分があります。襖の画がきれいにつながりません。これは、襖の引手跡を見るとよくわかります。しかも引手跡は、画の下から三十センチの高さにあることから、元の画から下の部分が失われていることがわかります。「松に秋草図」の画は下から八十センチのところに引手跡があることから見ても明らかです。「桜図」や「雪松図」も同様に引手跡の高さが不自然なので、下部が失われていることが分かります。

 ではなぜこのようなことが起きたのでしょうか。火災により焼失した祥雲寺の規模は相当なもので、襖は一枚が二メートルを超えていたそうです。後に方丈殿は規模を縮小して再建されましたので、その襖も小さくなります。ですので、新たな建物に障壁画を納めるときに、やむを得ず切り縮めたのです。

 現代の感覚では、障壁画を切り縮めてしまうのは、考えにくいことですが、この当時の障壁画に対する考え方は、あくまでも〝建物のなかに納まっている状態で鑑賞するもの〞であるということです。この時代に美術館はありませんから、このような大きな画が人目に触れるためには、襖に納めることが必要だったのです。長櫃に納めたままでしたら、おそらく智積院の建物が火災にあった時に一緒に焼失していたと思います。切り縮められていても、人の目に触れられている状態であったからこそ、数々の困難を乗り越えて、現代までこの画が残されてきたのです。

往時の障壁画を再現する

 では次に、この障壁画の当時の姿の再現に迫ってみたいと思います。まず注目したいのが「松に黄蜀葵図及菊図」です。私はこの画の改変時における切り詰めや切継の証明と復元について大学院で研究しました。この画の一部は宸殿の違棚にも流用されており、それらも含めて元の画を復元していきました。すると、かなりの部分が切り分けられ、画が改変されていることが分かりました。なかには剥落などで失われている部分もありましたので、そういったところを補って復元模写をしました。

 すると、この松の幹は二手に分かれて描かれ、水面も描かれていたことがわかりました。引手跡の位置などから、あと三面描かれていたことも推測されます。そして、松の根元に生えるススキなどの草花が左から右に風になびいている様子なども窺い知ることができます。

                「松に黄蜀葵図及菊図」の想定復元模写図 

 他の画については、画の現存部分を分解して、元の場所に配置した図を制作するところまではしましたが、いつかこれらすべての画を完全な大きさで復元できたとしたら、壮大な光景が広がるのではないかと思いますし、それが私にとっての夢でもあります。

 平成四年、元の祥雲寺客殿の遺構の発掘調査が行われました。それによって、やはり祥雲寺は京都随一といわれる方丈建築であったことが分かりました。この客殿は現在の智積院講堂の場所に建っていましたが、今の講堂がすっぽりと収まるほどの大きさでした。通常方丈建築は六室で構成されますが、この方丈は規模が大きかったので八室ありました。鶴松の三回忌法要が行われた最も大きな部屋は室中といわれ、そこには「松に秋草図」「松に黄蜀葵図及菊図」が納まっていたと考えられます。この室中を中心に、時計回りに季節が巡るように画が納められていました。

 室中の二つの松図は、向かい合わせになるように納められました。そうすると、ススキなどの草花が、一定の方向でたなびくのです。これは手前から奥に向かって風が吹いている様子が想像され、視線が自然と、鶴松が供養されていた室中奥の仏壇の間に向かうように描かれていたことがわかります。このようにして等伯は、この画全体を使って視線を奥に誘導する演出をしていたのです。

 当時、障壁画は現在と異なり、座って鑑賞するものでした。目線は引手跡の高さ八十センチほどになります。ちょうど、松の幹や草花が覆いかぶさってくるような感覚になります。これは、鶴松の視点で描かれているのではないかともいわれています。

 同じように「楓図」や「桜図」なども部屋一面に描かれていたと考えられます。しかも画は部屋を包み込むように描かれており、やはり建物に納まることを前提に描かれていることが分かります。令和五年の四月には、NHKでこれらの復元図がCG化されて紹介される予定です。

 智積院障壁画は、桃山文化最高傑作ともいえる大画の金碧障壁画を、往時の姿で見ることができる大変貴重な作品です。ぜひとも智積院に訪れた際は、その当時の息吹に想いを馳せていただけると嬉しく思います。

 

(構成/智山教化センター)