教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第40回 愛宕薬師フォーラム令和3年11月4日 別院真福寺

「不安を克服する生き方とは ー承認不安と現代人の社会背景ー」

講師:大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員・大正大学非常勤講師 山竹 伸二 先生

不安が増大している背景

 不安には、死への不安、病気、関係性などさまざまあります。そのなかでも本日は、誰かに認められたいと思う「承認不安」を中心にお話をしたいと思います。

 現在、若者を中心に「承認欲求」が増加しているといわれています。SNSなどで投稿したものに友だちから〝いいね〟がもらえると安心するのだそうです。しかし逆をいえば、誰かに承認をしてもらえないと不安になるのです。

 また自分の意見を押し殺して皆の意見に賛成することで、仲間外れになる不安から逃れる「同調圧力」ということも耳にします。これは、その集団で承認してもらうために皆と同じ意見を持つことによって、不安を解消するものです。

 このような承認不安には、歴史的な背景があります。近代以前の西洋を例にしてみると、生活の基盤はキリスト教であり、その教えに従って生活をしていれば皆から認められ、不安になることはありませんでした。つまり伝統的価値観が支配していた時代は、自由はないがアイデンティティは安定しており、自身の社会的役割やなすべきことは何かが決まっていました。これが産業革命を経た近代以後、資本主義の台頭や科学の発展、そして二つの世界大戦を経て価値観が多様化し、この伝統的な価値観が揺らぎます。自由があることによってアイデンティティが不安定になり、何をすれば認められるのかが不透明になってきたのです。つまり、社会の変容によって自由に生きる選択肢が拡大した「高度消費社会」となり、これによって承認不安が生じているのです。ただ単に自由に振舞うことでは不安は解消されません。やはり自分の行動が誰かに認められてこそ、不安というのは解消されるのです。

 このように価値観が多様化した世の中では、自分の価値をはかる基準を自分自身で見出すことが難しくなります。それゆえに根本的な「生きる意味」を見出しにくくなり、自分の存在に対する不満や承認の不安が生じるので、さらに周囲の承認が重要になってくることになります。

 

現代の日本社会における承認不安

 第二次世界大戦後の日本では、天皇制をはじめとする伝統的価値観が大きく揺らぎました。そして高度経済成長によって、豊かなアメリカを目指した経済至上主義へと価値観が変化していきますが、バブルを迎えるころにはその豊かな生活がある程度達成され、憧れの消失とともに戦後の価値観が崩壊していきます。

 日本は今、多様な価値観が認められる高度消費社会に突入し、自分なりの価値観で自由に生きればよいという社会になってきています。逆にこれが承認の基準を見えにくいものにしており、承認不安をさらに強くしているのです。

 次に若者についてですが、現在の日本では、核家族化や近所づきあいの希薄化によって、お互いが干渉しあわない社会となっていますので、狭い範囲のなかで親の価値観やルールが絶対視されてきています。この内面化された狭い範囲での規範は承認の基準としては不十分なので、子供の葛藤を増大させてしまいます。明確な基準がないのですから、学校においては身近な人々からの「同調圧力」によって承認欲求を満たし、偽りの自分を演じることになります。しかし、この空虚な承認ゲームをすることで自己不全感に陥り、不登校やうつ病を引き起こすようになるのです。

 

他人に認めてもらいたいという欲求

 他人に認めてもらいたいと思うメカニズムには「存在の承認」と「行為の承認」があります。

 存在の承認には二つあり、一つは親密な家族や友人、恋人からの愛情に基づく「親和的承認」で、これは無条件の承認です。これには自身が何かする必要がなく、ありのままの自分を受け入れてくれるものです。これが自己肯定感を生み、自己承認の基盤となります。もう一つは「人権の承認」で、見ず知らずの人々による法に基づく基本的人権の承認です。これは人種や能力によって差別されないものです。

 行為の承認には、集団で共有された価値に基づいた評価である「集団的承認」と、社会規範や世間一般の価値観に基づく「一般的承認」があります。これは価値観を共有する範囲の差で、狭い集団の中で認められるか、広く世間的に認められるかの違いです。このように他者に認められることによって自己に対する承認が生じます。ではこの自分自身に対する承認にはどのようなものがあるのでしょうか。

 まずは「独善的自己承認」というものがあります。これは特に思春期の方などによく見られる、根拠のない自信によって独善的に行動するもので、自己中心的な振舞いということになります。また、宗教や思想、社会規範などによって自分自身を認めることができるのが「規範的自己承認」です。そして多様な人々の観点を踏まえたうえでの普遍的視点による自己承認が「普遍的自己承認」です。これは多種多様な価値観を受容しなければならず、自身の存在の承認が弱かったりすると、この視点をもつことが困難になります。

 

子供の心の発達と承認欲求の展開

 人間が生まれてから成長する過程において、どのような承認不安を抱えながら生き、自己承認を得ていくのでしょうか。次はこの承認欲求の展開について見ていこうと思います。

 乳幼児期には親の親和的承認が大切になります。親はしゃべれず泣くことしかできない乳児に対して、なぜこの子は泣いているのかを考え世話をすることで、その欲求の意味をだんだんと理解していきます。これによって子供は欲求が満たされていくので、子供は「存在の承認」を得ることができます。そして子供は立って歩くようになったり、手先を自由に動かせるようになっていくと、親からほめられることによって「行為の承認」を得られるようになります。行動に自由度が増すと、したいという思いが拡大し、自分自身で動く単独行動が始まってきます。子供が自分自身で行動することができるようになると、親は自分でやりなさいというように子供に要求をするようになります。この要求に応えて「ほめられる」ことにより、さらに「認められている」という喜びが生まれ、自分自身の中でこうすれば認められるという「自己ルール」が形成され、主体性が磨かれていきます。

 その後小学校に入り四年生くらいになると、集団の中で認めてもらおうとする「集団的承認」によって周囲と同調したり、仲間外れになりたくないといった思いから、これまで形成してきた自己ルールを修正せざるを得なくなってくると、強い「承認不安」を抱くようになります。

 思春期に入ると、自分がどう見られているのかを気にするようになり、自分の存在価値を確認したくなる欲望が強まり、自意識が高まります。小さい時から周りを気にせず何かに没頭できている子というのは、あまり自意識が高まりません。逆に幼児期に自分のやりたいことができないでいる子は、自意識が高まってしまいます。自意識が高まると、周りの目を気にし、自分は何者なのか、自分には価値があるのか、といった不安が高まり、集団的承認への欲求が強くなります。そうすると、認められることだけが目的化し、本音を抑圧して偽りの自分を演じる、周囲への同調行為に陥ります。これによって不安は強まり、さらに存在の承認を求めることによって、親への反抗や自己不全感から不登校やひきこもりになってしまうのです。特に女子は集団的承認に走りやすいので、同調圧力に負けやすいといわれています。

 思春期に見られる行為のなかには、集団的承認に嫌気がさして、自分の存在価値を根拠もなく肯定する「独善的自己承認」があります。これは、俺は俺だという根拠のない自信でふるまったりすることで、承認不安を払拭する行動です。そこからもう少し広い範囲での、社会規範や世間的な価値などの特定の価値規範に準じた「規範的自己承認」を経て、多くの価値観を受容したうえで肯定的に自己評価をする「普遍的自己承認」へと承認の幅が広がっていきます。普遍的自己承認は、多くの価値観があるなかで他者の多様性を認めることができるものですが、これは自分自身が幼い時から存在の承認を得られているからこそ、多様な人々の存在を認められるのであって、幼い時から親からの親和的承認などの存在の承認をしっかり持てていないと持つことができない視点です。

 

子供に対する対応について

 それでは実際に、子供の自己承認を育むには、どのような対応をすればよいのかをみていきましょう。存在の承認に対しては、子供の感じていることを親が受け止めて言葉にし、共感的に対応することが大切です。具体的には、お母さんが泣いている子供を慰める場合、しっかりと言葉にして慰めることが求められます。なぜ自分が悲しいのかを親からの言葉で学ぶことによって、子供は自分がなぜ悲しいのかを理解することができるようになります。これによって自己了解の力が形成されていき、自分の感情や欲望を自覚することができるようになります。つまり、子供の自己了解は、親の対応によって気づかされるようになるのです。赤ちゃんははじめ、何が不快か自分では理解できないのですが、親に食事を与えてもらったり体を温めてもらったりすることで、自分がなぜ不快なのかを学んでいきます。しかし、小さい時に裸のまま外に出されるなどで親からの虐待を受けると、寒さの感覚がマヒしてしまうように、自己了解ができない子供になることがあります。

 行為の承認に対しては、子供にルールを教えることにより、そのルールを守ることでほめられると、それがよい行為として認識され、ルールを遵守するようになっていきます。親からの要求を内在化することでルールを介した関係における喜びを学び、主体的に行動するようになります。自由な発想をもつ子供になってもらうには、これがとても大切です。そして、親子で対話をすることによって一緒に考え、自分の考えで判断する力をつけることが、さらに公平な価値判断を養っていくことにつながります。これによって多様な他者の視点を考慮する普遍的視点が形成されていきます。

 日本は自己肯定感がとても低い国といわれていますが、自己肯定感の根っこはこのようなところから磨かれていくのです。ここでもやはり親の虐待があると、自身で判断する力が身につかず、歪んだ自己ルールを生み出してしまい、自己肯定感が低くなってしまうことがあります。

 

承認不安からの心の病とメカニズム

 それではこれから、不安のメカニズムについて具体的にみていきましょう。

 そもそも不安とは、危機的状況を知らせる信号であり、一種の防衛反応です。これは自分の身を守るために危険を避ける行為であり、恐れへの反応というのは実は必要なものなのです。不安になることがダメなのではなくて、不安に対して間違った対応をすることがよくないのです。不安に対して私たちは回避の行動をとります。その行動が適切であれば問題ないのですが、不安に対する歪んだ反応はさらに不安を招き、不安に対する不安が生まれます。たとえば、コロナ禍で生活に支障が出るほどに過剰に手を洗うようになってしまう場合です。このように不安が悪循環を起こすとさらに不安は増大し、パニックを起こすのです。

 不安に対する不安は、心理的にも肉体的にも病をきたし、心理的病としてパニック障害、身体への変化として心身症やPTSD(心的外傷後ストレス障害)などを引き起こします。また不安への防衛行動として摂食障害などが生じることもあります。また、これらの不安回避の失敗がうつ病などを引き起こします。うつ病は生真面目で几帳面なほどなりやすいといわれていますが、これは承認不安の裏返しということがいえます。

 

共感と相互ケア社会

 承認不安を克服するためには、自分自身に気づく自己了解が必要です。そのためには、自身の感情を受け止めてくれる信頼できる人たちの存在が大切です。周りの人たちに受け入れられていると感じられることが、自己了解を促進します。社会が自由に生きるための条件を提供していたとしても、個人の中で何がしたいのかがはっきりしていないと、自由を感じることはできません。自己了解がないと、人は自由に生きられないのです。

 したがって、それがどのような考えだったとしても、まずは周りの人たちが無条件に「共感」して受け止めてあげることで存在の承認を感じることができます。そこから自分自身の思考の歪みを修正していくことで不安が解消されていくのです。このように、受け止めて気づかせてあげる共感はとても大切です。逆に不安が払拭されないと、自身の歪みは修正することができません。

 現在は、高齢化や多様性によって不安を抱える人が増えており、心のケアを必要とする人が激増した社会となっています。特に高齢者や障がい者、子供には適切なケアが必要です。

 人類には元から共感する能力が備わっています。そこに文化や理性、つまり考える力をうまく調和させて共感力を育み、お互いがケアしあう相互ケア社会を目指すことで、承認不安が緩和され、自由に生きる可能性が広がっていくのではないかと思います。

(構成/智山教化センター)