教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第37回 愛宕薬師フォーラム令和元年9月18日 別院真福寺

老いの生き方―人にしかない貴重な時間―

講師:東京工業大学名誉教授  本川達雄 先生

時間の捉え方

 現代日本が抱える諸問題には、財政や少子高齢化、環境問題などが挙げられます。中でも「長い老後をどう生きるか」は、大問題の一つでもあります。この問題を「生物の時間」という視点からみることで解決の糸口が探れるのではないかと着眼し、私独自の考え方を今日はお話させていただきます。

 私たちは「時間」というと、「時計で計る時間」と考えますが、この概念の背景には古典物理学があります。いわゆるニュートンの絶対時間といわれるものです。絶対時間は、万物共通で一方向に同じ速さで流れるものとされ、この捉え方は、キリスト教の神の時間という考え方に基礎があります。ニュートンは敬虔なクリスチャンでしたので、厳然とした唯一の時間が実在すると考えました。この時間の捉え方が、近代人の常識でしょう。しかしこのような捉え方を弘法大師空海さまは、時は存在するものではないので「時外道」として、間違った考え方としています。
 では「生物の時間」とは、どういうものでしょうか。そもそも絶対的な時間があったとしても、時間を感じるはっきりとした感覚器官があるわけでもない私たちは、その時間をどう感じているのでしょうか。そこでいくつかヒントになるものを頼りにみてみましょう。まずは、ミヒャエル・エンデの名作『モモ』です。その中で、マイスターホラ(時の管理人)がこういいます。「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じに、人間には時間を感じとるために心(Herz/ヘルツ=心臓)がある」。心臓がドキンドキンとなることが、刻々と時を刻むと表現されているところがあります。この考え方のルーツになっているのが、アリストテレスです。彼は哲学者として知られていますが、実は生物学者でもあります。生物学から哲学を構築しているので、個人的にはとても親近感を感じます。そのアリストテレスが、時間を感じるのは心(魂)といっています。彼の時間の定義が、その後の時間の基礎になっています。彼は「時間とは、前と後に関しての変化の数」と唱え定義します。つまり沢山の変化(イベント)が起これば、時間が沢山経ったと感じるということです。そして、その変化(イベント)は眼でも音でも触覚でもわかり、五感で感じることができる。だから、時間はいろいろな感覚の共通部分=共通感覚であるとします。共通感覚の座(中心)は、心(心臓)で、そこが時間を感じるので、心臓が時間を数えていると解釈されました。この影響を受けてでしょうか、『モモ』の中では、心臓の鼓動である心拍が、時間を数えているというくだりがでてきます。何となく心拍が、時間を計るというのは納得のいく考え方ですが、一方で、心拍の速度が違ったら時間が違ってくるのかと疑問がでてきます。

体重、エネルギー消費量と時間

 私たちの心拍は1秒で一回、ハツカネズミは0.1秒、ゾウは3秒、クジラは9秒に一回です。体が大きいほど心臓一拍の時間が長いことがわかります。そこで心拍と時間の関係を調べてみますと、心拍の時間は「体重の四分の一乗」に比例する(体重が10倍になると、時間は約2倍になる)ことが導き出されます。つまり体が大きいほど時間がゆっくり流れる関係になっています。この「体重の四分の一乗」に比例する関係は、心拍だけではなく息を吸って吐く呼吸、腸の蠕動(ぜんどう)、懐胎期間(人間十月十日、ハツカネズミ20日、ゾウ600日)、成獣に達する時間、寿命などがあります。小さい動物は何でも速く、大きい動物はゆっくりです。これらのことから私は、ゾウの時間やネズミの時間があってもよいと考えています。いうならば、生物には生物独自の時間があるわけです。
 これまで出てきた「体重の四分の一乗」という数字は他ではあまり出てこないのですが、もう一つそれに当てはまる関係式があります。それはエネルギー消費量です。体重あたり(細胞一個のエネルギー消費量=細胞がどれだけ活発に働いているかの目安)のエネルギー消費量は、「体重の四分の一乗」に反比例します。つまり時間とエネルギー消費量は反比例するので、時間とエネルギーを掛け算しますと一定の値になります。仮に、寿命とエネルギーとを掛け算しますと、「一生の間の消費エネルギーは同じ」ということがわかります。つまり「一生のエネルギー消費量(仕事量)は、人間もネズミもゾウもどの生物も同じ」といえます。そして、同じになるのは仕事量だけではありません。それぞれの動物の時間を「心臓時計」で計った場合、呼吸1回につき4回の心拍、寿命は15億回の心拍と、すべて同じになります。私たち人間も、心臓が15億回打つと死ぬようになっています。時計の時間の長さとしては、ネズミの寿命は2年、ゾウは70年といわれますが、これまでみましたように、一生の間にする仕事量や心拍の回数は、どの生物でもすべて同じです。エネルギーを使うということは、その分だけ食べることでもありますが、一生に食べる量は一定です。また寿命の長さも生物の大きさで決まるのです。
 さきほど時間はエネルギー消費量に反比例することに触れましたが、これを換言すれば、時間の速度はエネルギー消費量に比例するといえます。つまり「エネルギーを使うと時間が速く進む」のです。ということは、逆にエネルギーを使わないと時間が止まることになります。冬眠はエネルギーを使わない代表例です。冬眠するリスと、しないリスでは冬眠するリスの方が寿命は長いのです。冬眠中は、エネルギーを使わないで体が磨り減らないから長生きになるのでしょう。もちろん長生きしたいために冬眠するわけではなく、冬という住み難い時間をやり過ごすためにするのですが、このように生物が時間を操作しているのです。私たち現代人は、どうしても時間は変えられないと、必死に時計の時間のベルトにしがみつき、できるだけ長生きしようとしますが、実は生物は時間の操作ができるのです。私は、この事実を知ったときに、肩の荷が軽くなったように感じました。また、ただ長生きすることが目的ではなく、自身が積極的に時間に関わっていけるのが生物だとも思っています。


 生きるということは、エネルギーを使って仕事をしていることです。これはエネルギーを使って働くと生きた時間が流れると言い換えることもでき、「生物は生きた時間を、エネルギーを使って、自分で作り出している」のです。同様のことを道元禅師が「わがいま尽力経歴(じんりききょうりゃく)にあらざれば、一法一物も現成することなし」「行持現成するを今といふ」と、自分で時間は作り出すものと仰っています。
 ネズミの時間は速く、ゾウの時間はゆっくりとなるのは、同じ時計の時間に沢山の仕事(エネルギー消費)をしているか否かなので、ネズミ時間は濃密・ゾウ時間は希薄と表現することもでき、生物の時間には違いがあるといえます。
 生きた時間はエネルギーを使って生み出されますが、生きているとは、どういう状態でしょうか。「ご臨終です」といわれても姿や形は変わりませんが無生物となり、エネルギーを使いません。つまり「生きている=エネルギーを使って働いていること」といえます。古代ギリシャ人は、この生物と無生物の違いは、「心(魂)を持つかどうか」としました。そしてアリストテレスは、「心の働きが生物の機能」と唱えます。ここでいう「機能」とは、ある目的のために働いていることを指します。ですから台風はエネルギーを使いますが、目的を持っていないので、機能がありません。また、死んでしまうと、心の働きがなくなり、機能・目的もなくなるわけです。さらにアリストテレスは、心(魂)を①栄養摂取・生殖、②感覚・運動・欲求、③思考(知性)の三種類に大別します。①は、植物も動物も人間も持つ、生物の永続に関係する共通の能力であり、②は動物・人間、③は人間のみが持つ能力とします。そして心の目的は「ずっとあり続けること」だと考え、だから「生きていることは生きていないことより善いこと」と提唱します。

回って永続することを目指すのが生物

 私たちは約38億年前に誕生した生物であり、それ以来一度も絶えずに続いてきた直系の子孫と考えられています。絶滅しても不思議ではない天変地異を生き延びてきました。これは、生物の個体がその都度死んでも、生物としてはずっと続くような仕掛けがあるためです。では、ずっと続くようにするには、どうしたらよいでしょうか。建物を例にして考えてみましょう。ずっと続く建物の建て方ですが、絶対壊れない建物を建てればよいですね。しかし、これは熱力学の第二法則(秩序だったものは無秩序になる、エントロピーは増大する)ため、不可能です。次に、法隆寺のように修繕を重ねていく方法です。これも使いにくさや機能劣化が生じます(生物は脚が衰えれば野獣に食われてしまいます)。では機能劣化を起こさずに永続する方法とは……。伊勢神宮の式年遷宮方式を用いることです。伊勢神宮は、20年ごとに建物を建て替え(時間を回して0(ゼロ)にリセットする)、これによって機能が劣化せず(常若[とこわか])ずっと続くことができます。
 このような伊勢神宮方式を生物は使っています。建て替える(=子供をつくる)時にエネルギーを使い、さらにエネルギーを使って世代という時間を回せば続きます。ですから子供・孫・曾孫……によって定期的に〈私〉が更新されることになり、〈私〉は続くことになります。ただ、今の私と全く同じコピーを作っては、環境の変化に対応できず絶滅してしまう可能性があるので、有性生殖を行って、少し違った子供をつくり、生き延びる確率を上げているのです。アリストテレスは「(生殖することは)できるかぎり永遠なものと神聖なものにあずかるために、自己自身に類似したものを生み出すこと」といいます。似てはいても少しだけ違うコピーを作り続ければ、ずっと続き、神に近づけるわけです。「今の私」→「子供の私」→「孫の私」と、〈私〉を引き継いでいけば、〈私〉として生き続けます。しかしながら、「今の私」しか考えられない現代人にとっては、大きな躓きがあるように思います。自我を一度否定して、我〈私〉を広くとり、時間を回す(=輪廻)ことをイメージすることで、死を克服できるのではないでしょうか。このように「自我を単独で屹立する我〈私〉から、我〈私〉の連鎖へと解放」、「絶対時間の考え方から自由になる」ことが老いの時間を考える上で重要になってくると思います。

人間の時間・社会の時間・現代の時間

 エネルギー消費量よって時間が違ってくることは既に述べましたが、これはネズミやゾウという個体ばかりではなく、人間も子供から大人になるまで時間が変わります。生まれてから二十歳ぐらいまでグングン消費量は減ります。ですから子供の時間は非常に速く、20歳を過ぎ、歳を重ねてくるとゆっくりになります。80歳では20歳の時より約2割長く時間がかかります。いわば子供の時間はネズミ的で、高齢者の時間はゾウ的といえます。


 例えば、夏休みに来た孫はエネルギーを使うから思い出が沢山あって長い夏休みだったと感じるけれど、祖父・祖母は、エネルギーを使ってないので、早く帰ってしまったと感じます。これは心理的に時間が速いのではなく、体そのものの時間が、祖父母と孫では異なっているからで、高齢者が子供と付き合うときには、時間を意識する必要があると思います。
 現代人は、自動車・携帯電話・パソコンなどの便利な機器に取り囲まれています。「便利=速い」といえます。機器(エネルギー)を使って時間を速めています。このように社会の時間も、エネルギーを使えば速くなります。つまり機械で加速された現代の時間の速度もエネルギー消費量にほぼ比例するのではないでしょうか。
 現代はビジネスの時間に支配されています。ビジネスとは忙しいこと(=時間が速いこと)であり、お金とエネルギーと時間の3つが組みになって回っているのが、現代の時間といえるでしょう。ビジネスは時間を操作しているともいえます。


 日本人が費やしているエネルギー消費量は、本来持っている体の消費量の30倍といわれます。しかし体の時間は縄文時代と変わっていません。これでは体の時間と社会の時間との間に大きなギャップが生じるのも無理はなく、体が社会の時間に追いつけず、そこにストレスが発生します。特に高齢者の時間は遅いため、追いつけなくなっています。
 私は、時間とは生きていく環境(時間環境)だと考えています。この観点からすると、現代は時間環境が破壊されているのです。時間環境を適切(=もっとゆっくり)にすれば、エネルギー問題なども解決されると思っています。

時間との折り合い

 現代人は、忙しく働いていますが、エネルギーを使って働いているのはコンピュータなどの機械であり、人間は単なるオペレータに過ぎません。エネルギーを使うことで生きた時間が生み出されるとしたら、現代人は生きた時間を持てていないことになります。すなわちビジネスの時間に流された生活において、人はいきいきとは生きていないのではないでしょうか。
 そういった意味では、本当に人間らしい時間を生きられるのは、ビジネスや生殖活動から引退した老後が重要になります。時間もゆっくりになりますが、本来の体の時間で生きられると捉えればよいのではないかと私は考えます。
 現代人はエネルギーを使って時間を生み出しています。その一つが「寿命」です。莫大なエネルギーを必要とする医療の寄与により、戦後七十余年で寿命は急速に延びました。日本人の寿命は、縄文時代で31歳、明治時代でも33歳といわれ、終戦後でも52歳だったのが、現在、男女ともに80歳超です。縄文時代に60歳超は、わずか一%だったそうです。
 生物学上では「ヒト」も、40歳代で老いの兆候がでます。心臓が15億回目を打つのは、41歳の時ともいわれます。
 長生きしても、先行きが不安であり、毎日毎日、今日が不安です。生物はずっと世代が続くことを最高の目的にしているわけですが、現代人は、そうではなく自分個人のことしか考えないことで、不安を増長しているように感じます。
 そこで、次のように考え実践してはどうでしょうか。①“私”の範囲を考え直し、子供・孫の中に〈私〉がいると、時間の広がりを持ち捉える。②自分の血脈以外の次世代をも支援する。例えば、文化の伝承や今の社会システムと自然環境が続くことに貢献すること。そして他者へ配慮をした老いの生き方を考えようではありませんか。
 次世代のために役立つことで長生きを許されるのが生物界の特徴でもあります。
 どんなかたちであれ、社会に対し、貢献できるとよいと思います。老後という「おまけの人生」、感謝しながら生きていきたいものです。

 (構成/智山教化センター)