教化センター

愛宕薬師フォーラム報告

第4回 愛宕薬師フォーラム平成23年5月26日 別院真福寺

愛宕 真福寺―江戸の寺院を知る

講師:大正大学文学部教授 坂本 正仁 先生

平成23年5月23日(木)午後2時より別院真福寺・地下講堂において、第4回の愛宕薬師フォーラムを開催しました。 
「愛宕 真福寺―江戸の寺院を知る」をテーマに、大正大学文学部教授の坂本正仁先生をお迎えし、お話しいただきました。
以下、当日の講演を要約してお伝えします。

○江戸寺院の役割

江戸は言うまでもなく、江戸時代における日本政治の中心地です。
江戸が本格的に歴史の舞台に登場するのは、長禄元年(1457)、太田道灌がこの地域を治めるために城を築いてからといえます。やがて、徳川家康が天正18年(1592)8月1日に江戸城に入り、さらに関ヶ原の戦いを経て天下人になると、江戸が幕府政治の中心地となり、寛永期頃まで大規模な埋め立てや堀の掘削、街道整備、町割などが行われ、城下町として整備が進みます。これにつれ江戸には武士だけでなく町人ら多くの「人」が集住するようになりました。江戸時代中期、江戸の人口は、武士が60万から80万人、町人が40万から50万人、僧侶など宗教者を含めると100万人を超しており、世界的にも最大規模の都市であったわけです。同じ大都市の大坂や京都の人口が、概ね30万から40万人(元禄期)ですから、江戸を語る上で人口の巨大さは重要なポイントです。
巨大人口の維持には、膨大な物資を必要とします。江戸は、「人」「物」が集まることで次第に巨大な消費都市になりました。さらにその消費を支えるために生産都市としての性格も強めていきます。こうしたことが江戸の独特な気質や特色を生み、「化政文化」などの江戸文化を発展させました。
一方、多くの人々が集住すれば、その精神面を支える装置も必要になります。それが宗教や文化です。特に宗教には「死にまつわる不安を和らげ、来世の保証をしてほしい(来世安穏)」「生きている間の願いを叶えてほしい(現世利益)」という期待が寄せられ、それは主に仏教に求められました。そうしたさまざまな願いに応じるため、江戸には新たに多数の寺院が建立された。幕府は、江戸を含め全国の寺院統制を寺社奉行や各宗の触頭を中心に行っていきます。ですから、江戸には先のような信仰を引き受ける寺院だけでなく、寺院行政のみに関わるような寺院も設けられました。このことは、多くの寺院が存在する京都とは異なる江戸寺院の特色といえます。

○江戸寺院の様子

仏教の信仰は、大きく二つに分けられると思います。葬儀・法事という死に関わる「滅罪」と、現世の願いを叶える「祈祷」です。 江戸では(江戸に限りませんが)、僧侶は人々の願いに応じてさまざまな宗教行為をしています。しかし人々は「滅罪」「祈祷」とも一つの寺院ではなく、別々の寺院に依頼することが普通でした。例えば将軍家の菩提寺は増上寺(浄土宗)や寛永寺(天台宗)ですが、増上寺では「滅罪」の行為は行っても決して「祈祷」はしません。将軍家の諸願を叶える祈祷行為は、「護

持院(知足院を改称)」が中心になっていました。庶民も宗門改め制度により特定の菩提寺をもっていましたが、同時に祈祷檀那として祈祷だけを依頼する寺院をもつことが一般的でした。

○江戸町人の宗教意識の特色

江戸町人がいだいていた宗教意識の特色をまとめると次のようなことがいえます。

①幕府は、禁止しているキリスト教や不受布施派に属さないように、宗門改め制度によって日本人全てが何れかの宗派寺院の檀徒になることを強制していた。宗門改めは家単位で行うため、一個人が特定の宗派・寺院を選択する余地はほとんどなかった。このため宗教行為は滅罪行為を中心に慣習化し、菩提寺との関係は形骸化していった。

②近世、江戸時代の人々は、中世に比べて、現世を謳歌する傾向が強まった。信仰面では、菩提寺を介する滅罪行為は習俗的な慣行として一層定着したが、菩提寺を介さない現世利益を追求する信仰が非常に高揚した。江戸などの大都市の町人にその傾向が強い。

③特定の寺院や霊場を参詣する信仰の旅が盛行した(成田詣・大山詣、西国や坂東などの観音札所巡りなど)。一方で全国の著名な寺院が、霊験あらたかな本尊や宝物類を江戸に運び、回向院や護国寺などの境内で参拝させる出開帳が頻繁に行われた。出開帳には出店が立ち、催し物や興行があるなど、信仰と娯楽がセットになっており、江戸町人の大人気を博した。

○江戸寺院の経済基盤
江戸寺院の経済基盤は、大きく二つに分かれます。一つは「土地経済」、もう一つは「布施経済」。これは土地収入・布施収入ともいえます。

「土地経済」とは、いわゆる田畑や借地など土地から得る収入です。将軍や大名から寺院に寄進された「朱印地」や「黒印地」、あるいは「除地」とされ田畑は、年貢・公租類は免除され、それは全てが寺院の収入になりました。また、年貢のかかる田畑を農民に貸して得る小作料や、門前町地を貸して得られる借地代も重要です。
一方、「布施経済」とは、檀家さんの葬儀・法事などの布施、そして祈祷料のことをいいます。江戸の寺院は、布施に頼る寺院が多かったと思いますが、土地・布施のどちらか一方からというのではなく、複合的になっている寺院も少なくなかったと思われます。

○真福寺とは…

真福寺の由緒については、いくつかの資料が遺っています。まず『御府内寺社備考』や『文政寺社書上』によりますと、
「真福寺は、正式には摩尼珠山宝光院真福寺という。山城国醍醐寺三宝院の法流末寺。境内地1363坪(東表38間、西裏36間、南34間、北34間)は幕府から拝領。さらに元禄5年(1692)徳川綱吉の代に百石の朱印地を拝領。開山は、下総匝瑳郡(現在の千葉県)谷部村真福寺の住職であった照海上人。照海上人は青山常陸介忠成と深い縁があり、忠成の勧めにより天正19年(1591)、江戸の鉄砲洲で草庵を結んだのが真福寺の始まり。慶長10年(1605)徳川家康にお目見えをゆるされて、愛宕下に寺領を拝領して伽藍を営み鉄砲洲から移り、それまで住職をしていた真福寺の名をつけた。慶長15年(1610)に新義真言宗の触頭役を命じられた。上人は、元和2年(1616)2月13日65歳で遷化した。真福寺の本尊は浅野幸長等身の薬師如来で、その腹中には浅野家伝来の弘法大師作薬師如来と幸長の性名・法名が籠められた。最初の本堂は浅野長政が寄進したという(このことのみは『米倉山白毫院西光寺寺歴(仮称)による』)が、享保12年(1727)12月に焼失し、その後寛政年間(1789―1800)に再建された(取意)」となっています。
次に『米倉山白毫院西光寺寺歴(仮称)』の「門末座位」(慶長14年10月17日付)などには、「西光寺(現、下総匝瑳教区寺籍一番)の諸行事に参集する西光寺の末寺や門徒の僧の座位は、西光寺の能化杲照を上座として、末寺や門徒らが左座・右座に着き、左座の五番目が「新(新は真の当て字)福寺 照海」。照海上人は、西光寺14代の住職で、谷部村の生まれ。鈴木姓を名乗る。西光寺吽照の直弟子となり、谷部に真福寺を作り朱印十二石を賜る(取意)」とあります。
朱印地とは、将軍家から与えられる土地です。谷部という地方の寺院に、いきなり朱印地を与えるところに、将軍家(徳川家)と照海上人の深いつながりを感じざるを得ません。
そして同資料には、「照海上人は、天正19年に江戸鉄砲洲に移り住み、そこに草庵を構えて真福寺とした。慶長6年、後陽成院から上人号を賜った。慶長10年に将軍家から愛宕下に1360坪の土地を賜り、浅野長政から本堂が寄進された。本尊薬師如来は、浅野家の家門繁栄のために浅野長政等身の薬師如来が造立された。照海上人は元和2年に65歳で亡くなり、遺言に従って矢部の真福寺に葬られた(取意)」とあり、前掲の資料と若干の相違が見られます。
また、寛永10年5月の「関東真言宗新義本末帳」下総国分には、「匝瑳郡南条庄米倉村 西光寺 御朱印有 寺領弐十石 本寺三宝院」とあり、その末寺に「矢部 真福寺 御朱印有 寺領十二石」とあります。しかし、いずれの資料からも照海がどのような経緯で朱印地を拝領したのかははっきりしません。
さらに『米倉山白毫院西光寺寺歴(仮称)』には、「西光寺の15代住職照誉は、元和2年に江戸の真福寺の住職となり、元和6年から寛永6年までの10年間西光寺を兼務した。その間の院代は宥仙。寛永11年に西光寺に隠居、同年5月に64歳で亡くなった」と記されています。江戸の真福寺は、寛永期にはすでに触頭になっていますから、住職は江戸に住んでいなければなりません。照誉が住職の間は、院代の宥仙が西光寺の用事を勤めていたということは、照海上人の時も同様な状況であったものと推測できますが、確たる資料が残らず、明白なことは分かりません。

○真福寺と触頭

そもそも真福寺は滅罪寺ではないので、布施収入がその経済を支えてはいません。江戸時代前期の経済が主に何によっていたかは明白ではありませんが、浅野家の援助は相応の役割を果たしていたはずです。しかし、元禄5年に百石の朱印地を拝領してからは、朱印地からの年貢が真福寺を支える主要な財源になっていたことは相違ありません。
真福寺は新義真言宗の触頭であるという権威に、存在の全てが収斂していました。したがって触頭という機能を真福寺から除いたら、存在基盤は失われてしまうといっても過言ではありません。このような性格の寺院は、江戸においても極めて少数です。
そこで触頭の役割についてまとめると、次のようになります。

①幕府や宗派・本山などの法令を、全国の新義真言宗寺院や僧侶に伝達する。

②宗派内の寺院や僧侶から、幕府(寺社奉行)に対する諸願を取り次ぐ。

③宗派内の寺院間、僧侶間の紛争を裁決する(未解決の場合は寺社奉行の預りとなる)。

④宗派内の寺院・僧侶を諸面にわたって統括する。

⑤江戸には、各宗における中央の触頭が設置され、その下部組織として大名領や特定の国に地域限定の「国触頭」とか「国僧録」などと呼ばれる触頭が設けられた。

⑥中央と地方の触頭が連繋することで、幕府の寺院統制、僧侶統制上に大きな役割を果たした。

現在でも宗団がその体裁を保つには、所属寺院や僧侶を統括する組織が必要であり、それが東京や京都などに設置されている宗務所です。このような全国の所属寺院や僧侶をまとめていく組織ができたのは江戸時代が始めてであり、それが触頭でありました。
新義真言宗の触頭は「江戸四箇寺」または「四箇寺」と呼ばれ、発足当初の構成は知足院・真福寺・円福寺・弥勒寺でした。その後、貞享4年(1687)七月に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、代わりに根生院が任じられます。以後、明治までは変化はありません(円福寺は明治二年に廃仏毀釈により廃寺)。
江戸四箇寺の発足年次は、各寺の伝承では慶長15年となっていますが、信頼できる資料はありません。近年の研究では、元和9年(1623)までの成立が確認されています。しかし、私は、真福寺開山の照海上人が没した元和2年には一応の形はできていたと思っています。そして、真福寺に限らず、「四箇寺」は将軍家や老中、有力大名らと深いつながりがあったことも確認されています(この傾向は他宗の触頭でも同様です)。

○触頭「江戸四箇寺」の存続基盤

江戸四箇寺の経済基盤は、檀家である武家や庶民からの布施収入に頼らない(特定の大名を檀那とすることはあるが、滅罪の檀家でなく、祈祷檀家である)で、それぞれの朱印地(真福寺・円福寺・弥勒寺は百石、根生院は二百石、知足院は五百石〈触頭時代〉)からの土地収入によるところが大きかった。さらに全国の寺院や僧侶から出される各種の請願にともなう、いわば寺務取扱手数料としての礼録・冥加料等(一件ごとの額は差程ではないでしょうが)の収入があり、両方によって維持されていたといえます。この辺に触頭寺院の経済の特異性があり、真福寺の独自性があらわれているといえます。
真福寺は庵のような存在から、浅野家や将軍家とのつながりの中で地位を高めていき、愛宕に寺地を拝領して伽藍を建て、触頭に就任しました。祈祷檀家の存在や本尊薬師への信仰が無意味とは申せませんが、触頭の地位こそ真福寺の繁栄を保証した事由だと思います。

(構成/智山教化センター)