真福寺について

真福寺は京都・東山七条にある真言宗智山派 総本山智積院の別院で、宗務出張所が置かれている寺院です。
正式には「摩尼珠山宝光院真福寺(まにしゅさんほうこういんしんぷくじ)」といいます。
ご本尊は「薬師如来」、正式には「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」といい、「身体健全」「当病平癒」にご利益のある仏さまで、そのお姿は右手で人々に安らぎと勇気を、左手に持つ薬壺で人々の病気の苦しみを除く誓願を示しています。弘法大師作と伝えられている浅野家相伝の秘仏が胎内に篭められている御尊像で「愛宕薬師」の名で親しまれております。
真福寺の縁起
照海上人(しょうかいしょうにん)が、慶長10年(1605年)徳川家康公より愛宕下に寺領を賜り、開創され、江戸時代を通じて新義真言宗の触頭(ふれがしら)を務めました。
元禄年間(1688~1704)になると江戸でも弘法大師四国八十八ヶ所札所詣りの信仰が盛んになり、宝暦年間(1751~1764)には御府内にも八十八ヶ所霊場が定められ、真福寺は第67番札所となります。
江戸時代は「愛宕のお薬師さん」と親しまれ、縁日(毎月8日)には門前市を成す賑わいで、広く庶民の信仰を集めてきました。
長い歴史の中で、度重なる火災や震災などにより初期の堂宇は焼失しました。大正から昭和にかけて、再建された本堂や庫裡も老朽化が進み、平成7年に「真福寺・愛宕東洋ビル」として再生されました。
現在は、真言宗智山派の東日本の拠点として、また地域の方々やオフィス街で働く人々の拠り所として活動しております。
江戸名所図会より
現在の真福寺
勝軍地蔵菩薩
真福寺の「勝軍地蔵菩薩」は、天平10年(738)行基が近江信楽遊行の折、造顕したもので永く同地に安置され、霊験あらたかな尊像でした。
天正10年(1582)徳川家康が「本能寺の変」の難を逃れ、伊賀越えの際、信楽の土豪・多羅尾氏が家康に献上、以来家康の厚い帰依を受けました。
慶長8年(1603)家康が征夷大将軍に栄進し、江戸に愛宕神社を創建。同社の本地仏として、勧請、別当を円福寺としました。

明治の廃仏毀釈で円福寺は廃寺となり尊像は真福寺に移されましたが、大正12年(1923)関東大震災で焼失しました。
現在の尊像は、昭和9年(1934)弘法大師千百年御遠忌記念として銅製で造顕されたものです。
